日本人が20年連続受賞――イグノーベル賞は「くだらない賞」ではなくなったのか?

今年もイグノーベル賞が発表された。

そして今年も日本人が受賞した。

これで20年連続である。

もはや「今年は日本人が取るかな」というレベルではない。秋になると日本人がイグノーベル賞を取る。季節のニュースになりつつある。

今年の医学賞は「正しい鼻のかみ方」を科学的に研究したものだった。

鼻である。

しかも、かみ方である。

これだけ聞くと、実にイグノーベル賞らしい。

しかし今回のニュースを見ながら、少し別のことを考えた。

イグノーベル賞って、昔とずいぶん立ち位置が変わっていないだろうか。

昔はもっと「くだらない賞」だった気がする

私がイグノーベル賞という名前を知った頃、この賞にはもっと強烈なジョーク賞という印象があった。

「世の中には変なことを研究している人がいるなあ」

と笑う賞であり、本家ノーベル賞のパロディという色がかなり強かった。

ところが最近は少し違う。

ニュースでも単なる珍研究として紹介するのではなく、「一見すると笑ってしまうが、実は真面目な研究」という扱いが増えた。

そもそもイグノーベル賞が掲げるのも、人々を「笑わせ、そして考えさせる」研究である。

今年の「鼻のかみ方」もそうだ。

テーマだけなら小学生の自由研究みたいだが、実際には鼻をかむときの空気の流れなどを測定して科学的に調べている。

笑うところは研究テーマであって、研究そのものではない。

ここが面白い。

「役に立つ研究」だけが科学ではない

科学研究というと、どうしても「何の役に立つのか」という話になる。

新薬を作る。新しい半導体を作る。エネルギー問題を解決する。

もちろん重要である。

しかし科学の出発点は、本来もっと単純だったはずだ。

「これ、どうなっているんだ?」

という好奇心である。

鼻はどうやってかむのが正しいのか。

そんなことを本気で測って調べる人がいる。

普通なら「どうでもいいだろ」で終わるところを、

「いや、測ってみよう」

と研究を始める。

この妙な執念こそ、かなり科学的である。

最初から「社会に役立つ研究だけをしろ」と決めてしまえば、研究テーマはどんどん似たものになる。

何が将来役に立つのかなど、研究を始める時点では分からない。

ピサの斜塔から2つのおもりを落としたガリレオを、当時の人は笑ったはずである。

それって何の役立つのかと

20年連続という日本の謎

それにしても、日本人が20年連続というのはすごい。

本家ノーベル賞なら国家的ニュースになるが、こちらは毎年のように誰かが取っている。

日本には世界でも珍しいほど、

「そんなことを真面目に調べてどうするんだ」

という研究を、本当に真面目にやっている人が大量にいるのかもしれない。

そしてイグノーベル賞も、いつの間にか単なる「変な研究を笑う賞」ではなくなった。

変な疑問を持ち、それを本気で研究してしまった人間を称える、もう一つの科学賞になっている。

本家ノーベル賞が人類の偉大な発見を称えるなら、イグノーベル賞は人類のどうでもよさそうな疑問を本気で追いかけた人を称える。

私は後者もかなり好きである。

何しろ今年は鼻のかみ方である。

人類は宇宙の起源を研究する一方で、鼻水をどう出すのが効率的なのかも研究している。

科学というものは、思っている以上に守備範囲が広い。