時代劇ではハッピーエンド。でも「追放された主人公」のその後を考えると笑えない
YouTubeで江戸時代の刑罰についての動画を見ていて、時代劇の見方が少し変わってしまった。
時代劇には、こんなラストがよくある。
主人公が何か罪を犯してしまう。しかし悪人ではない。事情を知ったお奉行様も同情する。
とはいえ無罪にはできない。
そこで、
「江戸所払いを申し付ける」
となる。
死罪は免れた。最後は仲間たちに見送られながら街道を歩いていく。
「達者でな」
夕日に向かって主人公が歩き、音楽が流れる。
めでたし、めでたし。
私もずっと、そんな感覚で見ていた。
ところが江戸時代の追放刑について少し調べると、あれは本当にハッピーエンドなのかと思えてくる。
「別の町に引っ越せばいい」ではない
現代人が追放刑を軽く感じるのは、現代の引っ越しを想像してしまうからだと思う。
東京を追い出されたなら大阪へ行けばいい。そこでアパートを借り、仕事を探せばいい。
しかし江戸時代は、そんな匿名性の高い社会ではない。
当時は人別帳などによって、人々が地域や身分、寺社との関係の中で把握されていた。現代の戸籍や住民票とは違うが、「どこの誰なのか」が生活するうえで重要だった。
そこから外れた人間が知らない土地へ行く。
家もない。仕事もない。頼れる親族もいない。
「追放刑になりました。今日からこちらで頑張ります」
と言って歓迎してもらえる時代でもない。
追放とは、単なる住所変更ではない。
それまで自分を支えていた人間関係や生活基盤から切り離される刑罰でもあった。
現代では「ゼロから再スタート」という言葉には前向きな響きがある。
本当にゼロから始めさせられると、かなり怖い。
「無宿」という言葉の重さ
生活基盤を失えば、無宿人となる可能性も出てくる。
時代劇では「無宿人」という言葉もよく出てくるが、子供の頃の私は「住所不定の浪人」くらいに思っていた。
しかし共同体とのつながりがなく、身元を保証してくれる人もいないとなれば、安定した仕事にも就きにくい。
現代なら行政や福祉につながる道があるが、江戸時代にそんなセーフティネットは期待できない。
命そのものは取らない。
ただし、
「ここから先は自分で生きろ」
と社会の外側へ放り出す。
かなり冷たい刑罰である。
結局は、山賊、追い剥ぎなどになるか、非人道的な肉体労働の現場にいくしかない。女性ならば売春という選択肢しかない。
病人や、高齢であれば飢え死にである。
時代劇のラストが違って見えてくる
こういうことを知ってしまうと、時代劇の追放シーンが以前とは違って見える。
主人公が夕日に向かって歩いていく。
仲間が手を振る。
音楽が盛り上がる。
昔の私は、
「よかった。死罪にならなかった」
と思っていた。
今なら、
「いや、この人、今夜どこに泊まるんだ」
と考えてしまう。
時代劇としては台無しである。
しかし追放刑とは、不思議な刑罰だ。
牢屋に閉じ込めるわけでもない。首を斬るわけでもない。
ただ、
「お前はもう、ここにはいられない」
と言う。
共同体なしでは生きにくかった時代には、それだけで十分に重い罰になった。
現代人には「自由になった」ように見える主人公が、実際には生活の土台そのものを失っている。
だから次に時代劇で「江戸所払い」を言い渡された主人公が、晴れ晴れと街道を歩いていたら、私はたぶん感動できない。
エンドロールのあとから、本当のサバイバル編が始まるようにしか見えないからである。