東大卒、英語も堪能、それでも人気がない——政治家に必要な「頭の良さ」とは何なのか

YouTubeを見ていたら、またこの政治家が出てきた。

東大卒で英語も堪能。大臣職も歴任し、経歴だけ見れば文句なしの超エリートである。実際、話を聞いていても頭の回転が速い。質問に対する反応も早く、知識も豊富で、政治家としての処理能力が高いことはよく分かる。

ところが、なぜか人気がない。

本人もそれを意識しているのか、YouTubeなどでは以前より親しみやすい姿を見せようとしている。しかし、これがまた難しい。頭のいい人が一生懸命「普通の人」を演じると、なぜか普通の人からさらに遠ざかって見えることがある。

日本では昔から、こういう人物を見ると「勉強はできるけれど、人の心が分からない」と評する文化がある。そこには高学歴エリートへの反感や嫉妬もあるだろう。

ただ、それだけで片付けると問題の半分を見落とす。

政治は「正解を出す仕事」ではない

学校の試験なら、正しい答えを書けば点がもらえる。しかし政治では、正しい答えを出しただけでは何も動かない。

相手にも立場があり、面子があり、支持者がいる。100対0でこちらが正しくても、相手を徹底的に論破して逃げ道まで塞げば、「あなたが正しいので従います」とはならない。「こいつには絶対に協力したくない」となることすらある。

日本では特に、議論で勝つことより「納得できる着地点」を作ることが重視される。会議でも交渉でも、理屈だけなら10分で終わる話を、全員が顔を立てられる形にするために1時間かけたりする。

合理的ではない。しかし、人間はそもそも合理的な生き物ではない。

ここを「非合理だから無視していい」と考える人は、理屈では勝ち続けながら、現実では負け続けることになる。

田中角栄は、人間が合理的でないことを知っていた

その対極として思い浮かぶのが田中角栄だ。半世紀前くらい前の政治家で、一時は日本の政界を牛耳っていた。

中卒という学歴から首相まで上り詰めた。彼については数え切れないほどの逸話が残っているが、面白いのは、人間の感情に対する異常なまでの理解である。

有名な話の一つに、選挙運動中、田んぼで働いているおばあちゃんを見つけると、自分も田んぼの中まで入って握手したという逸話がある。

当然、靴はドロドロだ。

周囲が「そこまでする必要があるのか」と聞くと、田中は「あのおばあちゃんは、田中角栄が田んぼの中まで入って握手してくれたと、家族や親戚に話す」といった趣旨のことを答えたという。

一人と握手しているように見えて、実際にはその背後にいる何十人にまで握手している。

泥臭いどころか、恐ろしく合理的である。

大臣として役所に乗り込んだときにも、入省したての若手官僚の名前を覚えて声をかけたという逸話がある。日本最高峰の大学を出て難関試験を突破してきた若い官僚でも、自分の名前を大臣が知っていれば嬉しい。「この人のために働こう」と思う。

人間は知能は高くても、感情面はそれほど猿より進化していない。

田中角栄はそこをよく知っていた。

「庶民派」は後からインストールするのが難しい

ここが現代のエリート政治家にとって厄介なところだ。

政策を勉強することはできる。英語も勉強できる。経済、安全保障、法律について専門家からレクチャーを受けることもできる。

しかし、人心掌握だけは50歳や60歳になってから「支持率が低いので、来月から親しみやすくなります」と始めても難しい。

YouTubeで笑ってみる。庶民的な店で食事をする。趣味の話をする。

一つ一つは悪くないのだが、「親しみやすさ向上プロジェクト」のKPIとして実施しているように見えた瞬間、全部が逆効果になる。

田中角栄が田んぼに入ったのも計算だったのだろう。しかし、計算だと分かっていても妙に人間臭い。そこが強い。

IQが高ければ人がついてくるわけではない

国際情勢も経済も技術も複雑になった現在、頭のいい政治家が必要なのは間違いない。大量の情報を理解し、専門家の説明を咀嚼し、短時間で判断できる能力は国家のトップにとって重要だ。

しかし、それは必要条件であって十分条件ではない。

政治家は評論家ではない。正しいことを言って採点してもらう仕事でもない。最終的には、官僚、党内、野党、業界、外国政府、そして何千万人もの有権者という、まったく思い通りにならない人間を動かさなければならない。

そこで必要になるのはロジックだけではない。相手が何を恐れ、何を欲し、どこまでなら譲れて、どこを立ててやれば動くのかを読む能力である。

田中角栄は大学には行かなかった。

しかし、人間という一番面倒な科目については、たぶん誰よりもよく勉強していた。

そして政治という試験では、残念ながらその科目が必修なのである。