震度7の記者会見を見て思った。「毒のある記者」は本当に不要なのか

熊本地震の被害状況が少しずつ明らかになってきた。

震度7という揺れを考えれば、もちろん犠牲になられた方がいることは痛ましい。それでも、多くの人が恐れていた最悪のシナリオと比べれば、被害は抑えられたと言えるのかもしれない。

そんな中、一つの記者会見がネットで大きな話題になっていた。

地震によるガス漏れが原因とみられる爆発事故で従業員が亡くなったショッピングモール。その運営会社の社長が開いた記者会見で、ある記者がかなり厳しい口調で問い詰めていた。

「なぜガス漏れが起きたのか。」 「なぜ防げなかったのか。」

ネットでは当然のように、

「震度7だぞ。」 「そんなことを今聞いてどうする。」 「調査も終わっていないのに責めるな。」

という意見が大半だった。

私も、あのタイミングであの質問をしても、有益な答えが返ってくるとは思わない。

まずやるべきことは、現場の安全確保と原因究明である。

会見で社長を追い詰めても、亡くなった方が戻ってくるわけでもなければ、事故原因が分かるわけでもない。

ただ、それでも少し考えてしまった

「ああいう記者はいなくなった方がいい。」

本当にそうなのだろうか。

もちろん、今回の質問は適切だったとは思わない。

しかし、その場面を見ながら、別のことを考えていた。

もし、日本から空気を読まない記者が一人残らず消えたらどうなるのだろう。

日本の大手メディアには構造的な弱点がある

日本の大手新聞やテレビ局には、記者クラブという仕組みがある。

行政や警察、官公庁との関係を維持しながら取材を続ける以上、どうしても「出入り禁止」は避けたい。

もちろん、それ自体が悪いと言いたいわけではない。

正確な情報を得るには信頼関係も必要だからだ。

しかし、その結果として、

「これは踏み込みすぎかな。」

という無意識のブレーキがかかることもある。

アクセスを失えば、今後の取材そのものが難しくなるからだ。

一方で、毒を持ったメディアも存在する

そこへ現れるのが、一部の週刊誌や独立系メディアだ。

彼らは時に品がない。

言葉もきつい。

センセーショナルな見出しも使う。

PVや部数目当てだと批判されることも少なくない。

その批判には、一理ある。

しかし一方で、歴史を振り返ると、大手メディアが何年も触れられなかった問題を最初に掘り起こしたのも、こうしたメディアだった。

政治家の汚職。

企業不祥事。

長年隠されていた性加害問題。

最初は「飛ばし記事だ」「下品だ」と言われながら、結果的に事実だったという例も少なくない。

つまり、毒にも薬にもなる存在なのである。

毒は危険だが、消毒しすぎると社会は腐る

私はイエロージャーナリズムを肯定したいわけではない。

事実確認を怠った報道。

人格攻撃。

行き過ぎた吊し上げ。

そういうものは批判されるべきだ。

しかし逆に、社会から毒を完全に取り除いたらどうなるだろう。

大手メディアだけになる。

空気を読む記者だけになる。

「これは聞きづらいから、今回はやめておこう。」

そんな判断ばかりになったとき、一番安心するのは誰だろう。

権力者である。

政治家かもしれない。

巨大企業かもしれない。

行政かもしれない。

民主主義は、品のいい人だけでは案外うまく回らない。

誰かが空気を壊し、嫌われ役になり、ときには一線を越えそうになるくらい執拗に食らいつく。

そんな社会にとっての毒があるからこそ、権力者も「見られている」と感じる。

もちろん毒は扱いを間違えれば人を傷つける。

だから批判され、時には訴えられ、淘汰されることも必要だ。

それでも私は、その毒を完全に抜いてしまう社会の方が、もっと危険なのではないかと思っている。

社会に毒は要らない、と言うのは簡単だ。だが、毒が一滴もない社会で一番安心して眠れるのは、たいてい権力を持つ側である。