アヘン戦争で負けた中国、震え上がった日本――明治維新を生んだ「危機感」の違い
前回の記事では、イギリスが清に仕掛けたアヘン戦争についての動画内容を記事にした。
麻薬を売りつけ、取り締まられたら軍艦を送り込む。大英帝国のなかなか豪快な商売である。
今回はその続きとして、アヘン戦争が中国と日本に与えた影響について紹介したい。
興味深いのは、実際に戦争で負けた清よりも、海の向こうでそのニュースを聞いた日本の方が、国家存亡の危機として強く受け止めたのではないかという点である。
なぜ、そんな違いが生まれたのだろうか。
中国にとって異民族の脅威は珍しくなかった
中国の歴史を振り返ると、異民族との戦争や征服は決して珍しくない。
モンゴル人による元、満洲人による清。そもそもアヘン戦争当時の清朝自体が、満洲人によって建てられた王朝だった。
中国には、軍事的に敗北しても、相手と講和し、金銭や領土の譲歩によって体制を維持するという歴史的経験があった。
さらに、中華文明こそが世界の中心だという伝統的な世界観もある。
相手が軍事的に強くても、文化的には自分たちの方が上だ。そんな認識が、西洋列強の脅威を理解する妨げになった面もあったのだろう。
もちろん清にも危機感を抱いた知識人はいたし、その後には軍事・産業の近代化も進められた。
ただ、王朝の統治体制そのものを根本から変えるところまでは、なかなか踏み込めなかった。
日本の幕府は、武力で負ければ権威を失う
一方、日本を支配していたのは徳川幕府である。
徳川家は武家政権だ。天皇から将軍に任じられるという権威もあったが、その支配を支える重要な柱は、全国の大名を従わせる軍事力だった。
その幕府が外国勢力に歯が立たないとなれば、どうなるか。
「そんな弱い幕府に、日本を任せておいて大丈夫なのか」
当然、こういう疑問が出てくる。
実際、幕末には外国への対応をめぐって幕府の権威が揺らぎ、倒幕運動が勢いを増していく。
つまり、日本にとって西洋列強の脅威は、単なる外交問題ではなかった。
外国に負けることが、そのまま国内の政治体制を崩壊させかねない問題だったのである。
黒船が来る前から、日本人は勉強していた
ここでもう一つ重要なのが、日本人の対応である。
アヘン戦争の情報は、オランダ経由の報告や中国の書物などを通じて日本にも伝わった。
幕府は海外情報の収集を進め、西洋の軍事技術への関心も高まっていく。
もっとも、蘭学はアヘン戦争以前から存在していた。日本人が突然、西洋の学問に目覚めたわけではない。
すでに医学、天文学、測量などを学ぶ知識人はいた。
ただしそれまでは西洋の学問というのばマイナーな立ち位置だったのが、軍事技術を中心に突然みんな勉強し始めたのである。
そして1853年、ペリーの黒船がやってくる。
ここで初めて、日本人は西洋の軍事力を目の前に突きつけられた。
しかし、完全に未知の相手だったわけではない。
西洋の技術力について情報を集め、研究していた人々がすでに存在した。
幕府は結局、開国を迫られ、その後の政治的混乱を収拾できなかった。
それでも、日本が比較的短期間で近代国家へ移行できた背景には、こうした知識の蓄積があったと考えられる。
中国と日本の違いは、本当に危機感だけだったのか
ここまで考えると、日本人は危機感が強く、中国人は鈍感だったという単純な話にしたくなる。
しかし、実際にはもう一つ大きな違いがある。
清は巨大な帝国だった。
広大な領土と膨大な人口を抱え、国内では反乱も相次いでいた。そんな国家の統治制度を根本から作り替えるのは容易ではない。
一方、日本は比較的小さな島国で、幕府と藩という政治構造を持っていた。
幕府が倒れても、各藩には行政や軍事を担ってきた人材が存在する。
明治新政府は、そうした人材や制度を再編しながら近代化を進めることができた。
さらに日本は、アヘン戦争で清が敗北する姿を、直接戦わずに観察できた。
清は自分の身を犠牲にして西洋列強の恐ろしさを証明し、日本はその結果を見て対策を考える時間を得た。
日本にとっては、実にありがたい先行事例だった。
清にしてみれば、たまったものではない。
本当に怖いのは、危機が来ても何も学ばないこと
アヘン戦争から明治維新までを振り返ると、一つの教訓が見えてくる。
危機を知ったからといって、すぐに社会を変えられるわけではない。
日本も黒船が来るまでは、幕府の体制を根本から変えることができなかった。
しかし、その間にも海外の情報を集め、西洋の技術を学び、準備していた人々がいた。
そして危機が現実になったとき、その蓄積が役に立った。
これは現代の組織にも通じる話だろう。
新しい技術が登場しても、すぐには既存の仕組みを変えられない。予算がない、前例がない、今の仕事が忙しい。
理由はいくらでもある。
それでも、情報を集め、技術を学び、準備することはできる。
日本の明治維新を可能にした要因の一つは、危機が来てから慌てて勉強を始めたのではなく、その前から学んでいた人々がいたことだ。
もっとも、歴史を振り返ると、もう一つ皮肉なことにも気づく。
日本が西洋列強の恐ろしさを学べたのは、先に中国がひどい目に遭ってくれたからである。
他人の失敗から学ぶのが賢者だという。
ただし、その教材にされた側は、笑っていられない。