幼児に「中途半端な英語」は必要なのか? 地域のお祭りで考えた英語教育の落とし穴
先日、地域のお祭りに足を運んだ。宗教色のない純粋な地域イベントで、会場は大勢の人で賑わっていた。
その一角で、見覚えのある英会話スクールが子ども向けの模擬店を出していた。以前、私が通っていたスクールである。
もっとも、すでに退会している。理由は単純で、コスパが悪かったからだ。
現在はフィリピン人講師とのオンライン英会話を毎日30分続けている。料金は1回500円程度。一方、日本でイギリス人講師から対面レッスンを受ければ、45分で5,000円程度はかかるだろう。
これは講師の能力差というより、生活コストの違いだ。日本で暮らしている以上、フィリピンと同じ料金で教えろという方が無理な話である。
子どもに英語を習わせる意味はあるのか?
さて、模擬店では子どもたちが簡単な英単語を並べるゲームを楽しんでいた。
その光景を見ながら、ふと思った。
「幼児英語教育って、本当に必要なのだろうか?」
自分で言うのも何だが、私は日本人の中では英語ができる方だと思う。日常的に英語を使い、英語で情報を得ることにも大きな苦労はない。
だからこそ、もし自分に子どもがいたら、幼い頃から英会話スクールに通わせるだろうか、と考えてしまった。
結論から言えば、おそらく通わせない。
幼少期から英語に触れることが発音や聞き取りの面で有利なのは確かだ。しかし、週に何回か英単語を覚えたり、英語の歌を歌ったりしたところで、将来英語を自在に使えるようになると思えない。
本格的に英語を身につけさせるなら、インターナショナルスクールのように、英語を日常的に使う環境を用意する方法がある。
しかし、今度は学費が問題になる。しかも、問題はそれだけではない。
英語ができても、日本語ができなければ困る
日本で生活し、日本の学校に進み、日本の社会で働くのであれば、日本語の能力は欠かせない。
単に会話ができるという話ではない。文章を正確に読み、抽象的な概念を理解し、自分の考えを論理的に表現する能力である。
英語中心の教育を選んだ場合、日本語の読み書きや日本の受験制度への対応を別途考える必要がある。
もちろん、二つの言語を高い水準で使いこなす人はいる。しかし、それには相応の教育環境と継続的な努力が必要だ。
私が心配するのは、英語も日本語も、日常会話はできるが複雑な内容になると十分に扱えない状態である。
言語は単なる会話の道具ではない。知識を吸収し、物事を深く考え、それを他人に伝えるための道具でもある。
英語の発音がきれいでも、自分の考えを論理的に説明できなければ、あまり意味がない。
英語より先に経験させたいことがある
もし自分に子どもがいたら、幼少期には英語よりもスポーツや課外活動を経験させたい。
体を動かす。失敗する。友達と喧嘩する。協力する。悔しい思いをする。
そうした経験の方が、幼いうちに英単語を何百個覚えることよりも、人間としての土台を作るのではないかと思う。
英語は必要になってからでも学べる。実際、私自身がそうしてきた。
一方、幼少期にしか得られない経験もある。
ただし、外国人と触れ合う機会には価値があると思う。
世界には日本語を話さない人がいる。日本とは違う文化や習慣がある。自分たちの常識が世界共通ではない。
そうしたことを肌で感じる経験は、英単語を覚えることとは別の意味で重要だ。
今回のお祭りの模擬店も、英語教育というより異文化交流の入り口として考えれば、十分に意味がある。
バイリンガルという肩書きより大切なもの
そもそも、バイリンガルになること自体を教育の目標にする必要があるのだろうか。
大切なのは、何語を話せるかではなく、その言語を使って何を考え、何を伝えられるかである。
英語が必要になったとき、学ぶための知的な土台ができていればいい。逆に、その土台が弱ければ、使える言語が二つに増えても問題は解決しない。
幼児英語教育にお金をかける前に、まず日本語で本を読み、考え、話し、さまざまな経験を積ませる。それで十分ではないか。
お祭りの模擬店で楽しそうに英単語を並べる子どもたちを見ながら、そんなことを考えていた。
英語を話せる子どもを育てることに夢中になって、肝心の「話す中身」を育てるのを忘れては本末転倒である。
将来、世界に向かって堂々と「Hello!」と言えたとしても、その先に話すことが何もなければ、会話はそこで終了だ。