過去の被害は「免罪符」になるのか?――イスラエルと日本を取り巻く被害者の論理

世界中で続く紛争のニュースを見ていると、以前から疑問に感じていたことがある。

過去にひどい被害を受けた人間や国家は、その後、何をしても許されるのだろうか。

特にイスラエルとパレスチナの対立を見ていると、この疑問が強くなる。

ホロコーストの悲劇は、現在の免罪符なのか

ユダヤ人が歴史上、凄惨な迫害を受けてきたことは紛れもない事実だ。ナチスによるホロコーストは、人類史に残る重大な犯罪である。

欧米諸国、とりわけドイツがイスラエルに対して特別な責任を感じてきた背景にも、この歴史がある。

しかし、だからといってイスラエルの軍事行動がすべて正当化されるわけではない。

ガザ地区では多くの民間人が犠牲になり、住居や生活基盤が破壊され、人々は逃げ場すら失っている。

この光景を見ていると、強烈な皮肉を感じずにはいられない。

ガス室がないだけで、やっていることの本質は変わらないのではないか。

かつて民族を理由に迫害され、大量虐殺の犠牲となった人々。その歴史を背負う国家が、今度は別の民族を追い詰めている。

ホロコーストとガザで起きていることは、手段も歴史的背景も異なる。しかし、国家の圧倒的な力によって特定の集団の生命と尊厳が踏みにじられているという点で、私には同じ構造が見える。

過去の悲劇を二度と繰り返さないと誓いながら、今度は自分たちが加害する側に回る。これほど皮肉な歴史の繰り返しがあるだろうか。

被害者の立場は永遠に続くのか

イスラエルとパレスチナの問題を日本から眺めていると、奇妙な非対称性を感じる。

過去に迫害されたユダヤ人の苦しみは繰り返し語られる。一方、現在進行形で苦しんでいるパレスチナ人の生活や生命は、国家安全保障という言葉の陰に隠れてしまうことがある。

イスラエルにも自国民を守る権利はある。しかし、それはパレスチナ人の生命を軽く扱ってよい理由にはならない。

そもそも、過去の被害者と現在の加害者は、同じ個人ですらない。何世代も前の被害を、現在の国家行動の正当性に結びつけること自体に無理がある。

過去の被害を理由に現在の行動を正当化できるなら、被害者という立場は世代を超えて継承され、いつまでも失われないことになる。

そして、現在の加害行為によって新たな被害者が生まれる。

その新しい被害者も、将来は過去の被害を理由に何かを要求するのだろうか。

これでは終わりがない。

日本にとっても他人事ではない

この構造は、日本を取り巻く外交関係にも見られる。

日本が過去に中国や朝鮮半島で行ったことには、当然、歴史的な責任がある。

しかし、その責任を認めることと、現在の中国や韓国のあらゆる要求を受け入れることは別問題だ。

過去に被害を受けたという事実が、現在の外交的圧力や理不尽な要求を無条件に正当化する理由にはならない。

歴史問題を持ち出されるたびに、日本だけが譲歩しなければならないという論理もおかしい。

過去の加害行為は過去の加害行為として評価し、現在の行動は現在の国際法や倫理に照らして判断すればよい。

それだけの話である。

ところが現実の国際政治では、被害者という立場が強力な外交カードになる。過去の悲劇が大きければ大きいほど、そのカードの効力も強くなる。

そして、そのカードを批判すること自体が、過去の被害を軽視する行為だと非難される。

こうなると、まともな議論すら難しくなる。

歴史は反省の材料か、それとも特権の根拠か

私が最も疑問に感じるのは、過去の被害がいつの間にか現在の特権の根拠に変わってしまうことである。

過去に迫害されたことは、現在の迫害を許される理由にはならない。

過去に侵略されたことは、現在の威圧的な外交を許される理由にはならない。

過去に差別されたことは、現在の不当な要求を許される理由にはならない。

判断基準は単純でよい。

誰がやったかではなく、何をやったか。

イスラエルであろうと、中国であろうと、日本であろうと、同じ基準で評価すればよい。

ところが国際政治では、過去の被害が大きな道徳的権威を生み、その権威が現在の行動への批判を封じるために使われることがある。

歴史から学ぶとは、過去の被害者に永久的な特権を与えることではない。同じ過ちを繰り返さないことである。

被害者だったことは、加害者にならないことの保証にはならない。まして、加害者になってよいという許可証でもない。

しかし、過去の悲劇をいつまでも免罪符として使い続けるなら、歴史は人類の教訓ではなく、単なる特権の相続財産になってしまう。