援助は善意ではない——日本人が目を背けがちな「国際政治」の現実

先日、妻がSNSを見ていたらしく、こんな話をしてきた

「JICAって組織が、熊本が地震で困ってるのに備蓄品を放出しないらしいよ」

JICAとは国際援助を目的とする国の関連団体である。緊急時の備蓄品を持っているの出さないことで叩かれてるようだ。

まあ、そうゆうこともあるよね。日本はお役所仕事だから、、、、

という感じで話を濁したが、ワタシ的に思うところがあるのでここで書いておく。

「海外に援助する金があるなら、日本人を助けろ。」

なにか災害が起きるたびに、このような意見はネットに出回る。

気持ちは分かる。

被災地の映像を見れば、まず国内を優先しろと言いたくなるのは自然だ。

ただ、その議論には一つ、大きな前提がある。

「国際援助は善意で行われるものだ」という前提である。

私は、この前提そのものが間違っていると思っている。

援助は相手国のためではない

かなり乱暴な言い方になるが、あえて言う。

援助は相手国のためではない。

自国の利益のためである。

国家は慈善団体ではない。

ODAも、経済協力も、インフラ整備も、結局は資源、安全保障、市場、外交上の影響力を確保するための投資だ。

もちろん、相手国の生活が良くなることもある。

しかし、それは目的ではなく結果である。

援助の何割かが現地の政治家のポケットに入っても、それはそれで構わない。

目的はあくまで、自国の利益だ。

これは日本だけではない。

アメリカも、中国も、ヨーロッパも同じゲームをしている。

中国の「一帯一路」などは、その本音をかなりストレートに表現している例だろう。

港を造る。

鉄道を造る。

道路を造る。

その代わりに影響力を手に入れる。

世界は昔から、このルールで動いてきた。

時代は変わった。ルールも変わった。

昔の列強は軍隊を送り込み、植民地を作り、資源を持ち帰った。

しかし、そのやり方は第二次世界大戦で終わった。

だから今は、お金を出す。

インフラを整備する。

技術を提供する。

形は変わった。

しかし、本質はそれほど変わっていない。

武力が投資へ変わっただけである。

もちろん、昔よりずっと平和的になったことは歓迎すべきだ。

それでも、「見返りを期待している」という構造までは消えていない。

日本だけが、きれいごとを言いたがる

日本政府も、本当は分かっているはずだ。

だから資源国へ援助を行う。

シーレーンの安全を守るための協力を行う。

国連で支持を得るためにODAを使う。

全部、日本の利益のためである。

それなのに国民へ説明する時は、

「国際貢献」

「困っている国への支援」

という、きれいな言葉ばかり並べる。

私は、この説明の仕方が好きではない。

援助そのものではなく、その説明が嫌なのである。

もし最初から、

「これは日本の資源と安全保障を守るための投資です。」

と説明してくれれば、議論はもっと健全になる。

本当に国益につながるのか。

投資に見合う成果があるのか。

そういう話になる。

ところが、「善意」だけを前面に出すから、

「海外へ金を配るくらいなら国内へ回せ。」

という話になってしまう。

議論の出発点が違うのである。

世界は善意より、利害で長く続く

少し身も蓋もない話になる。

国家同士の友情は、案外もろい。

政権が変われば簡単に変わる。

しかし、利害関係は意外と長続きする。

お互いに利益があるから付き合う。

利益がなくなれば距離を置く。

冷たいようだが、それが国際政治だ。

私は「援助をやめろ」と言いたいのではない。

むしろ必要だと思っている。

ただ、「優しい国だから援助しています」という説明は、もう卒業した方がいい。

国家は慈善団体ではない。

日本が援助を続けるのは、日本が生き残るためだ。

私は、その方がよほど誠実な説明だと思っている。

などと、かっこいい締め方をしたが、妻に対してはあやふやな返事でごまかした時点で、私も偉そうなことはいえない