隠れキリシタンと「宗門心得違い」――ルールは変えず、名前だけ変える日本の伝統芸

先日、テレビの歴史番組で隠れキリシタンの特集を見た。

江戸時代、幕府はキリスト教を厳しく禁止し、信者を徹底的に取り締まった。キリストや聖母マリアの像を踏ませる「踏み絵」も、そのための手段だった。

ちなみに、この「踏み絵」という言葉は、今でも「忠誠心を試す踏み絵」などの形で使われている。なかなか物騒な歴史を持つ言葉である。

さて、番組で面白かったのは、迫害そのものよりも、その後の幕府や藩の対応だった。

キリシタンを見つけると、役人が困る

当初は厳しく弾圧していたものの、時代が下るにつれて、キリシタンを積極的に摘発することが必ずしも得策ではなくなっていく。

理由は単純だ。見つけると面倒くさいのである。

藩内でキリシタンが発覚すれば、幕府への報告や取り調べが必要になる。管理責任を問われる可能性もある。処分するにも手間がかかる。

だったら、最初から見つからなかったことにした方がいい。

そこで登場するのが「宗門心得違い」という便利な言葉だ。

要するに、キリシタンとして処罰するのではなく、「宗教について少々心得違いをしている者」として扱う。

「我が藩にキリシタンなどおりません。ちょっと宗教を勘違いしている農民がいるだけです」

これなら厳格な禁教政策を正面から否定せずに、処分を軽くできる。

なんとも見事な官僚的解決法である。

パチンコも自衛隊も、基本構造は同じ

この話を聞いて、以前からこのブログで何度も取り上げている日本独特の仕組みを思い出した。

**「ルールは変えずに、名前と解釈を変えて現実に合わせる」**というやり方だ。

代表例がパチンコである。

法律上はあくまで「遊技」であり、店が客に直接現金を払い戻すことはできない。しかし、三店方式という仕組みを挟めば、客は景品を現金に換えられる。

誰がどう見てもギャンブルに近い仕組みだが、法律上は別のものとして扱われている。

自衛隊も似ている。

憲法9条には「戦力の不保持」と書かれている。しかし日本には、戦闘機も戦車も護衛艦もある。

そこで「自衛のための必要最小限度の実力は、憲法が禁止する戦力には当たらない」という解釈が登場する。

軍事力を持っているのに、憲法上の「戦力」ではない。

そして江戸時代の隠れキリシタンも、キリスト教を信仰しているのに、処罰すべきキリシタンではなく「宗門心得違いの者」として扱われた。

もちろん、それぞれの制度の法的な仕組みは異なる。しかし、根底にある発想はよく似ている。

原則は絶対に動かさない。その代わり、現実の方を言葉で加工するのである。

日本の「うやむやシステム」は歴史が深い

本来、ルールと現実が合わなくなったら、ルールを改正するのが筋だ。

しかし、それには議論が必要になる。反対派との対立も生まれる。政治的な責任も発生する。

だったら、ルールはそのままにして、解釈だけ変えてしまえばいい。

誰も大きな決断をしなくて済むし、表向きは原則を守ったことになる。

実に合理的だ。少なくとも、責任を取りたくない人間にとっては。

江戸時代の役人が「宗門心得違い」という言葉で面倒な問題を処理していた話を聞くと、現代日本の行政や政治と同じものを感じる。

数百年たっても、やっていることはあまり変わらない。

日本では、現実に合わせて法律を変えるより、現実の呼び名を変える方が手っ取り早いらしい。

江戸時代にパチンコがあったら、きっと「賭博心得違い」で営業できただろう。