過去の歴史を「今の正義」でどこまで裁けるのか

ニュースを見ていたら、アフリカ諸国が、かつての植民地支配や奴隷貿易についてヨーロッパ諸国に賠償を求める動きがあるという話をやっていた。

植民地支配や奴隷貿易が悲惨なものだったことに異論はない。

ただ、見ながら少し引っかかった。

これ、どこまで遡って責任を取らせることができるのだろう。

私は法律の専門家でも歴史学者でもないので、ここでは法的に請求が成立するかどうかを論じたいわけではない。

もっと単純に、現在を生きている人間が過去とどう折り合いをつけるのか、という話である。

今の人に、どこまで責任があるのか

最初に引っかかったのは世代の問題だった。

奴隷貿易を行った本人はもういない。植民地支配を決めた政治家も、そこで利益を得た商人もほとんど残っていない。

現在のヨーロッパに住んでいる普通の人に、

「あなたの国が昔これをやったのだから、あなたも負担してください」

と言うことは、どこまで正当なのだろう。

もちろん国家は個人より長く続く。

現在の国家が過去の国家から資産や制度を引き継いでいる以上、都合のいい遺産だけ相続して、都合の悪い歴史だけ「昔の人がやったことです」と切り離すのも変な話ではある。

ここが難しい。

個人として見れば、自分が生まれる前の犯罪について責任を問われても困る。

しかし国家として見れば、歴史は連続している。

現在の価値観をどこまで過去へ持っていけるのか

もう一つ気になるのが、時代によって法律や倫理観が違うことである。

近代法には、後から作った刑罰で過去の行為を処罰しないという「法の不遡及」の考え方がある。

植民地賠償の問題をそのまま刑法の不遡及と同一視することはできないが、私が感じた違和感はこれに近い。

現在の法律や価値観を、どこまで昔へ遡って適用するのか。

これは線を引こうとすると途端に難しくなる。

たとえば侵略された歴史について、何百年でも遡って現在の国家に請求できるとしたらどうなるのか。

極端な話、日本だって元寇を持ち出してモンゴルに何か要求する、という妙な話になってしまう。

もちろん誰もそんなことはしない。

では100年前なら対象で、700年前なら対象外なのか。

その境界線はどこなのだろう。

アメリカ先住民の問題を考えても難しい

似たことはアメリカにもある。

ヨーロッパから人々が移住する以前から、アメリカ大陸には先住民が暮らしていた。その土地を奪われ、追いやられ、多くの犠牲が生まれた歴史がある。

だからといって、

「後から来た人間の子孫は全員出ていけ」

とはならない。

そんなことをすれば、今度は現在そこに生まれて暮らしている人間を追い出すことになる。

しかし反対に、

「昔の話だから全部忘れよう」

というのも違う。

歴史を完全に元へ戻すことはできない。しかし、何もなかったことにもできない。

歴史問題の厄介さは、結局ここにあるのだと思う。

日本だって他人事ではない

このニュースを見ながら、日本も同じだと思った。

近隣諸国との歴史問題や戦後補償をめぐって、似た議論を何度も繰り返している。

謝罪したのか。

十分に補償したのか。

国家間では解決したのか。

個人の被害はどうするのか。

世代が交代しても責任は続くのか。

立場によって答えはまったく違う。

そして「完全に正しい答え」を探そうとすると、たぶん永久に終わらない。

歴史は裁判の証拠書類のようにきれいに整理されていないからだ。

完全な正義より、どこかで手打ちするしかない

結局、私はこの手の問題には「解決」というものが存在しないのではないかと思っている。

過去に戻って歴史を書き換えることはできない。

被害を受けた人々の苦しみをゼロにもできない。

かといって、何世代も後の人間に永遠に責任を引き継がせることにも無理がある。

だから現実には、過去に何があったのかを認め、必要なら謝罪し、経済協力や支援を行い、どこかで政治的な妥協点を作るしかない。

それは「完全な正義」ではない。

むしろ不完全だからこそ妥協なのである。

歴史問題というと、つい「どちらが正しいのか」という話になりがちだ。

しかし何百年という時間をまたぐ問題では、正義を100%実現しようとすると、別の誰かに新しい不正義を作ることもある。

だから、歴史問題について「完全に解決しました」という言葉をあまり信用していない。

人間ができるのは、過去を完全に精算することではなく、過去を忘れず、それでも現在を人質に取らせない程度のところで手を打つことなのだと思う。

少なくとも元寇の請求書をモンゴルへ送るような世界よりは、そのほうが暮らしやすい。