「だんご屋」と書いた一票で市長が変わる――民意を汲みすぎる選挙の難しさ

選挙というのは、民主主義の根幹である。

だから一票は重い。

重いのだが、まさか「だんご屋」と書かれた一票について、大人たちが本気で議論することになるとは思わなかった。

茨城県神栖市の市長選で、候補者2人の得票数がまったく同じになった。

こうなると法律に従って、最後はくじ引きで当選者を決める。

これだけでも十分珍しい。

ところが、その後さらに票を調べると、「まんじゅうや」「だんごさん」などと書かれた票が出てきた。

候補者の一人は、親族が和菓子会社を営んでいる。市の選管はその候補者への票と判断したが、県選管は「本人の通称として広く使われていたとは認められない」として無効と判断。

市と県で判断が分かれる結果になり、結論は法廷に持ち込まれた。

民主主義の最前線で、

「だんごさんとは誰なのか」

を大真面目に議論することになったのである。

いや、候補者の名前を書こうよ

このニュースを見て最初に思ったのは、制度論でも法律論でもない。

名前を書け。

候補者は2人しかいない。

投票所には候補者名も掲示されている。

それなのに、なぜ「だんごさん」と書くのか。

選挙は大喜利ではないし、「俺が誰に投票したか、このヒントで分かるだろ?」と選管に謎解きを要求する場所でもない。

しかも今回は同票だった。

普段なら大勢に影響しなかった一票が、市長を決める一票になってしまった。

民意を汲むほど、曖昧になる

とはいえ、選管が細かく検討する理由も分かる。

日本の選挙では、多少不完全な記載でも「誰に投票したのか」が明確なら、なるべく有効票として扱おうとする。

民主主義なのだから、できるだけ民意を汲み取る。

これは正しい。

しかし、ここにジレンマがある。

民意を汲み取ろうとすればするほど、「これは誰への票なのか」という解釈が必要になる。

「だんごさん」は誰なのか。

「まんじゅうや」は誰なのか。

どこまで有名なら通称なのか。

厳密に運用しようとするほど、逆に人間の解釈が入り込んでくる。

そもそも2人なら○を付ければいいのでは

そこで身も蓋もない疑問が出てくる。

候補者が2人しかいないなら、名前を書かせず、どちらかにチェックを付けるだけでよくないか。

日本の選挙は原則として候補者名を自分で書くから、誤字、略称、通称などの問題が発生する。

候補者の横にチェックを付ける方式なら、

「この『だんごさん』は誰を意味するのか?」

という哲学的問題そのものが発生しない。

二択なのに自由記述式。

システム屋から見ると、なかなか恐ろしいUIである。

アンケートで、

「AとBのどちらが好きですか?」

と聞いておきながら、回廊欄には巨大なテキストボックスを一個置いているようなものだ。

そりゃ誰かが余計なことを書く。

民主主義はユーザーをBANできない

システムでも、利用者に何でも自由入力させれば、必ず「なぜこれを入力した?」というデータが入ってくる。

だから選択肢を作り、入力形式を決め、バリデーションを入れる。

自由を少し減らす代わりに、曖昧さを消すのである。

選挙は民意を扱うから、そう簡単には割り切れない。

できるだけ一票を救いたい。しかし救おうとすれば、人間による解釈が必要になる。

民主主義とは、なかなか面倒くさいシステムである。

ただ今回については、制度を壮大に論じる前に一つだけ言いたい。

候補者は2人である。

名前も掲示されている。

鉛筆も置いてある。

それでも「だんごさん」と書く人間まで想定して制度設計しなければならない。

ユーザーは、マニュアルを読まないものだ。

そして民主主義では、そのユーザーをBANすることもできない。