巨人が負けても何とも思わない――「アンチ」の先にある無関心という境地

プロ野球のクライマックスシリーズで、巨人が敗退したというニュースを目にした。

子供の頃の私なら、テレビの前で頭を抱えていただろう。当時は熱烈な巨人ファンだった。

ところが今は、何とも思わない。

悔しくもないし、嬉しくもない。そもそも巨人が勝とうが負けようが、私の人生には何の影響もない。

かつてあれほど夢中になった球団が、今では天気予報の知らない地方の降水確率と同じくらい、どうでもいい存在になってしまった。

熱烈なファンから、熱烈なアンチへ

巨人を嫌いになったきっかけは、金に物を言わせて他球団の主力選手を集める姿勢だった。

子供の頃は純粋に応援していたのに、いつしか「金で選手を買い集めて勝って何が面白いのか」と反発するようになった。

そして、立派なアンチ巨人が誕生した。

巨人が負ければ嬉しい。勝てば腹が立つ。応援していた頃とは感情の向きが逆になっただけで、相変わらず巨人の試合結果を気にしていた。

考えてみれば、アンチというのも随分と熱心なファンである。

嫌いな相手の動向を欠かさずチェックし、負ければ喜び、勝てば不機嫌になる。自分の感情を相手の成績に委ねているのだから、実に献身的だ。

ところが、歳を重ねるにつれて野球そのものへの興味が薄れていった。

巨人を嫌う情熱も消え、試合結果すら確認しなくなった。

「好きの反対は嫌いではなく無関心」という言葉がある。

今ならよく分かる。

嫌っているうちは、まだ相手に関心がある。本当にどうでもよくなれば、嫌うことさえ面倒になるのだ。

私が今も毒を吐き続けるもの

そこで、ふと考えた。

私はブログで政治や宗教、IT開発現場の残念な話、さらには中国についても、皮肉や批判を繰り返している。

なぜ、わざわざそんなことをするのだろう。

巨人のように完全にどうでもよくなったのなら、そもそも話題にする必要がない。

思い返せば、どれもかつては期待や好意を抱いていたものばかりだ。

政治には、もう少しまともに社会を動かしてほしいという期待がある。

宗教についても、若い頃は仏教思想に強く関心を持っていた。今は距離を置いているが、だからこそ理想と現実の落差が気になる。

IT業界については、長年仕事をしてきた分、思い入れも強い。技術は進歩しているのに、現場では相変わらず非合理な判断や無意味な作業が繰り返される。そんな光景を見ると、つい一言書きたくなる。

そして中国だ。

今では中国に批判的なことをブログに書く機会も多いが、実は子供の頃、中国は好きな国だった。

『三国志』をはじめとする歴史物語の影響も大きい。壮大な歴史、英雄たちの駆け引き、独特の文化。中国という国には、どこか憧れに近い感情を抱いていた。

それが今では、中国に関するニュースを見て皮肉を書いている。

考えてみれば、巨人とよく似た経緯である。

どうやら私は、最初から嫌いだったものより、昔好きだったものに対して、よほど執念深くなる性格らしい。

批判とは、期待の残骸なのか

人は何かに期待するからこそ、失望する。

失望すると批判する。批判しているうちは、まだ相手が変わることをどこかで期待している。

しかし、その期待すらなくなれば、最後に残るのは無関心だ。

かつての私にとって、巨人の敗戦は一大事件だった。今ではニュースを見ても、心がまったく動かない。

政治家が何を言おうと、中国で何が起ころうと、IT現場でどんな珍妙な判断が下されようと、「ああ、そうですか」で終わる日が来るのだろうか。

それは精神的には随分と楽そうだ。

腹を立てる必要もない。皮肉を考える必要もない。ブログのネタを探す必要もない。

ただし、そこまで悟ってしまうと、書くことがなくなってしまう。

どうやら私のブログは、世の中に失望しながらも、まだ完全には見捨てられないという中途半端な執着によって成り立っているらしい。

巨人に対しては、ようやく無関心という境地に達した。

政治や宗教、中国、そしてIT業界についても、いつか同じ境地に達したいものだ。

もっとも、その頃にはブログも廃業だろう。

私が悟りを開くと、ブログのネタがなくなる。実に困った宗教的ジレンマである。