「更生しました。でも駐車禁止は守りません」――元ヤクザのインタビューで感じた習慣の恐ろしさ

先日、テレビのドキュメンタリー番組を観ていて、妙に印象に残る場面があった。

街頭インタビューに応じていた一人の男性。話を聞くと、昔はヤクザをやっていたという。

今では過去の行いを深く反省し、普通に暮らせることのありがたさを実感しているらしい。さらに、困っている人を助けるボランティア活動にも取り組んでいるという。

なかなか立派な話である。人生をやり直し、今度は人の役に立とうとしている。

ところが、画面を観ていて思わず「あれ?」となった。

男性が乗ってきた車が、駐車禁止の場所に止まっていたのである。

心は入れ替わっても、駐車場所は変わらない

本人は真剣に反省しているのだろう。ボランティア活動も本心からやっているのだと思う。

しかし、その一方で、駐車禁止の場所に車を止めることには、あまり抵抗がないらしい。

ここが実に興味深い。

昔の悪事を反省し、社会のために生きようと決意する。そういう大きな人生観は変えられる。

ところが、「ここに車を止めたら迷惑だろうか」「そもそも駐車禁止ではないか」という日常の細かな感覚は、なかなか変わらない。

本人にしてみれば、昔の自分と比べて十分に真面目になったつもりなのだろう。

何しろ、かつてはヤクザだったのだ。今ではボランティアまでしている。本人の中では劇的な変化である。

その壮大な更生物語の前では、駐車禁止など些細な問題なのかもしれない。

三つ子の魂百まで

日本には「三つ子の魂百まで」という言葉がある。

長年の生活で身についた習慣や価値観は、本人が意識している以上に根深い。

特に厄介なのは、本人に悪いことをしている自覚がない場合だ。

大きな犯罪をやめるには、強い決意が必要だろう。しかし、日常の小さなルール違反をやめるには、そもそもそれを問題だと認識しなければならない。

そして、長年当たり前にやってきたことほど、その認識が難しい。

人間は「これからは真面目に生きます」と宣言できる。だが、それだけで頭の中に染み付いた行動パターンまで一斉に更新されるわけではない。

むしろ、大きな目標を達成したことで、細かな問題が見えなくなることさえあるのだろう。

番組の男性も、過去の自分と比較すれば、確かに別人のように変わったのかもしれない。

ただ、あの映像を観ていて思った。

ヤクザを辞めることはできても、ヤクザ時代に身についた駐車の習慣まで辞めるのは、なかなか難しいらしい。

人間の更生とは、実に奥が深い。

少なくとも、車を止める場所までは更生していなかった。