英語の否定疑問文が理解できない。よく考えたら日本語もおかしかった
英語を勉強していると、文法的には理解できても、どうにも腹落ちしない表現に出会うことがある。
先日、英文を読んでいて、こんな一文に引っかかった。
Are landlords not the only people likely to celebrate it as economic growth?
「それを経済成長だと喜ぶのは、大家だけではないか?」
いわゆる修辞疑問文である。
普通に質問するなら、Are landlords the only people…? でいいはずだ。
「喜ぶのは大家だけなのか?」
ところが、ここに not を入れると、「大家だけではないか?」となり、相手に同意を求める表現になる。
理屈はわかる。否定疑問文には、話し手の予想や同意を求めるニュアンスがある。
しかし、どうにも腹落ちしない。
なぜ否定することで、肯定への同意を求めることになるのか。英語というのは面倒な言語である。
ところが、日本語も同じだった
そこで日本語に置き換えて考えてみた。
「喜ぶのは大家だけなのか?」
「喜ぶのは大家だけではないか?」
確かに後者の方が、「大家だけだろう」という主張が強い。
……あれ?
日本語でも否定形を使っているではないか。
しかも、普段は何の疑問もなく使っている。
英語の not に文句をつけていたら、日本語の「ない」までおかしく感じ始めてしまった。
「大家だけではないか」は、文字どおりに考えれば「大家だけではない」という否定にも見える。それなのに、実際には「大家だけだ」という肯定の主張になる。
いったいどういうことなのか。
母国語だって、理屈で話しているわけではない
考えてみれば、日本語を話すときに、いちいち文法規則を頭の中で組み立てているわけではない。
子供の頃から何万回も聞き、使ってきた表現だから、自然に意味がわかるだけだ。
英語になると、途端に理屈を求め始める。
なぜここに not が必要なのか。なぜ否定なのに肯定になるのか。文法的にどう説明できるのか。
しかし、母国語である日本語ですら、同じ問いを突きつけられると怪しくなる。
言語というものは、数学のように公理から組み立てられた体系ではない。人間が長い時間をかけて使い続けてきた結果、そういう表現が定着したという側面がある。
文法はその使われ方を整理して説明するものだが、説明を理解したからといって、必ずしも感覚的に納得できるわけではない。
結局、外国語の学習には、理屈で理解する部分と、そのまま覚えるしかない部分があるのだろう。
英語の否定疑問文に納得できず、日本語に翻訳してみたら、今度は日本語までわからなくなった。
英語の勉強をしていたはずなのに、母国語への自信まで失うとは思わなかった。