自動運転に「事故ゼロ」を求めたら、たぶん永遠に走れない
自動運転バスの事故がまたニュースになっていた。
2026年9月、埼玉県深谷市で自動運転バスが物損事故を起こし、試験運転は停止になった。
こういうニュースを見るたびに思う。
自動運転は、いったいどこまで安全になれば社会に許されるのだろうか。
もちろん試験運転中であり、不具合のチェックのための一時停止なら当然である。
しかしニュースの文面では「安全性が確認できるまで無期限停止」とある。
この安全性の確認は誰が決めるのだろう?
人間は毎日のように事故を起こしている
当たり前だが、人間が運転する自動車も事故を起こす。
信号を見落とす。アクセルとブレーキを踏み間違える。居眠りする。スマホを見る。判断を誤る。
それでも「人間の運転は危険だから、全国の自動車を一斉に止めよう」とはならない。
ところが自動運転になると、事故が一件起きただけで空気が変わる。
「安全性は大丈夫なのか」 「なぜ実験を続けるのか」 「事故が起きる可能性があるものを公道で走らせていいのか」
そして運行停止、原因調査、再発防止、安全確認となる。
事故原因を調べるのは当然だ。しかし問題は、その先にある。
比較すべき相手は「事故ゼロ」ではない
自動運転の安全性を考えるとき、本来比較すべきなのは理想世界ではない。
人間の運転である。
仮に人間が1億キロ走れば100件の重大事故を起こし、自動運転なら50件だったとする。
それでも自動運転による50件の事故は起きる。
ニュースにもなる。被害者も出る。
そこで「自動運転なのに事故が起きた。危険だから止めろ」と言えば、残るのは100件事故を起こす人間の運転である。
安全性を2倍にした技術が、「事故をゼロにできなかった」という理由で排除される。
これでは技術は永遠に社会実装できない。
機械の事故だけが許せなくなる
興味深いのは、人間のミスと機械のミスでは社会の受け止め方が違うことだ。
人間の運転手が事故を起こせば、運転手の過失として処理できる。警察が調べ、保険会社が補償し、必要なら刑事責任も問われる。
ところが機械が事故を起こすと話が巨大になる。
メーカーの責任なのか。ソフトウェア会社なのか。運行会社なのか。自治体なのか。認可した行政なのか。
責任の矢印が一気に上へ伸びる。
だから組織としては止めるのが最も安全になる。
自動運転を続けて次の事故が起きれば、「なぜ前回の事故で止めなかった」と責められる。一方、止めたことで技術開発が半年遅れても、ほとんど誰も責任を問われない。
日本の組織では、この非対称性が非常に強い。
アメリカや中国との差は技術だけではない
自動運転で先行する国との違いは、AIやセンサーの性能だけではない。
事故が起きることを前提として、どこまでを許容し、誰が責任を負い、どう補償し、その事故から得たデータをどう次の改善につなげるか。
技術を社会に入れるには、こちらの設計も必要になる。
特に重要なのは「安全か危険か」という二択から離れることだ。
現実の社会にゼロリスクなど存在しない。
飛行機も鉄道も自動車も医療も、事故や死亡を完全にはなくせない。それでも社会が使っているのは、便益とリスクを比較し、事故が起きた場合の責任や補償の仕組みを作ってきたからだ。
自動運転だけに「絶対に事故を起こすな」という条件を付ければ、答えは簡単である。
走らせなければいい。
日本車が日本で走れない未来
ここで少し嫌な未来を想像してしまう。
日本の自動車メーカーが高度な自動運転技術を完成させる。
しかし日本では事故が起きるたびに大騒ぎになり、実証実験が止まり、行政が調査し、安全確認に時間がかかる。
その間に海外では車が走り続ける。事故も起きる。しかしデータも集まる。ソフトウェアも改善される。
数年後、日本メーカーも海外市場では普通に自動運転車を販売しているのに、日本国内では慎重な実証実験が続いている。
そして十分な海外実績ができたところで、「海外で安全性が確認された最新技術」として日本へ持ち込まれる。
日本企業が作った技術を、日本人が海外実績を確認してから使い始める。
そんな逆輸入まで起きたら、もはや技術力の問題ではない。
日本が自動運転で負けるとしたら、技術の問題ではなく失敗を許せない文化のせいだと思う。