100年継ぎ足したタレは、本当に100年前のタレなのか?
焼き鳥やうなぎの老舗でよく聞く言葉がある。
「創業以来、継ぎ足しながら守ってきた秘伝のタレ」
これを聞くと、なんとなくすごい。
100年前の職人が作ったタレが今も壺の中に残っていて、そこに歴代の店主が少しずつ味を重ねてきた。そんなイメージを持つ。
ところが、数学的に考えると少し身も蓋もない話になる。
タレは使うたびに減り、その分だけ新しいタレを足す。当然、古いタレの割合はどんどん小さくなる。
一定割合ずつ入れ替わるモデルで計算すれば、最初に入っていたタレは指数関数的に減っていく。店の使い方によって速度は違うが、数か月もすれば元のタレは入れ替わってしまう。
つまり「100年間継ぎ足したタレ」といっても、中に100年前のタレが残っているわけではない。
少し夢のない話である。
では、継ぎ足しに意味はないのか
だからといって、
「じゃあ毎朝、新しく作れば同じじゃないか」
ともならない。
継ぎ足しながら使えば、焼いた肉や魚から出た脂や旨味が入り、日々使って補充する中で味が作られていく。
重要なのは100年前の分子が残っていることではなく、昨日のタレを今日のタレが引き継ぎ、今日のタレを明日のタレが引き継ぐことなのだろう。
完全にリセットされる日はない。
考えてみれば、これは少し不思議な話である。
100年前のタレは残っていない。分子レベルでも怪しい。
しかし、そのタレは確かに100年間続いている。
これは「テセウスの船」と同じではないか
ここで思い出すのが、有名な「テセウスの船」という哲学の思考実験である。
長年使われている船の板が傷むたびに、一枚ずつ新しい板へ交換していく。
やがて最初の板は一枚もなくなった。
では、それは最初の船と同じ船なのか。
継ぎ足しのタレも、かなり似ている。
醤油が足される。砂糖が足される。使った分が減る。また新しい材料が足される。
100年後には創業時の材料など事実上残っていない。それでも店は「創業以来のタレ」と呼ぶ。
物質として考えれば別物である。
しかし、歴史として考えれば一本につながっている。
どうやら私たちは「同じもの」という言葉を、物質だけで判断しているわけではないらしい。
人間はタレだけを食べているわけではない
さらに面白いのは味である。
同じ料理を、
「創業100年、継ぎ足してきた秘伝のタレです」
と言われて出される場合と、
「さっき厨房で作りました」
と言われて出される場合。
まったく同じ味だったとしても、受ける印象はかなり違うはずだ。
人間は舌だけで食事をしているわけではない。
古い店構えがあり、職人が焼いていて、代々受け継がれた壺が置いてある。そこで「100年継ぎ足したタレです」と言われれば、その歴史まで含めて味になる。
科学的に分析すれば、そんなものは味覚成分ではない。
しかし、人間にとっての「おいしさ」は化学分析の数字だけでは決まらない。
だったら、それも料理の一部なのだろう。
100年残っているのは何なのか
結局、「100年継ぎ足したタレ」の中に100年前のタレがどれだけ残っているかを考えること自体、少しズレているのかもしれない。
残っているのは物質ではない。
作り方であり、毎日使って補充する習慣であり、それを次の人へ渡してきた連続性である。
会社も街も文化も似たようなものだ。
人間そのものだって、昔と同じ細胞でできているわけではない。それでも昨日の自分と今日の自分を別人だとは思わない。
そう考えると、100年継ぎ足したタレを「100年前とは別物だ」と笑うほうが、むしろ物事を単純に見すぎている気もしてくる。
もっとも、そんな哲学を考えながら食べなくても、うなぎはうまい。
そして店主に「これ、本当に100年前の分子は残っていますか?」などと聞かないほうが、たぶんもっとおいしく食べられる。