過去の私は、本当に「私」なのか――テセウスの船とドラえもん

先日、「継ぎ足しのタレ」の話から、テセウスの船についてブログを書いた。

古い船の部品を少しずつ交換して、最後には最初の部品が一つも残っていない。それでも同じ船と言えるのか、という有名な思考実験である。

100年継ぎ足したタレも同じで、創業時の成分がほとんど残っていなくても、私たちは「100年続いているタレ」と考える。

そこでふと思った。

これ、人間も同じではないか。

私たちの体も常に代謝している。細胞も分子も入れ替わる。10年前と今では、考え方も仕事も人間関係も違う。

それでも私たちは、10年前の自分も、今の自分も、10年後の自分も、全部まとめて「私」だと思っている。

本当にそれほど一体なのだろうか。

『ドラえもん』には恐ろしい話がある

この問題を考えていて、『ドラえもん』のあるエピソードを思い出した。

のび太から大量の宿題を押し付けられたドラえもんが、名案を思いつく。

未来の自分を連れてきて、手伝わせればいい。

未来のドラえもんをタイムマシンで連れてきて宿題を手伝わせる。一人では足りないので、さらに先の未来からも自分を連れてくる。

そして宿題は無事に終わる。

やれやれ。ようやく寝られる。

ところが、ここからが地獄である。

眠ろうとしたドラえもんを、今度は過去のドラえもんが起こしに来る。

「宿題を手伝ってくれ」

宿題を手伝って戻ってくる。

寝ようとする。

またさっきの過去の自分が来る。

また宿題を手伝う。

それが何度も繰り返され、ドラえもんは睡眠不足になり、次第に正気を失っていく。

自分が未来へ押し付けた仕事を、時間差で自分自身が回収しているのである。

子ども向け漫画なのに、なかなか救いがない。

未来の自分は、かなり他人に近い

この話が面白いのは、ドラえもんが未来の自分をほとんど「別の誰か」として扱っていることだ。

未来の自分なのだから働かせればいい。

今の自分は楽をする。

しかし時間が進めば、自分がその「別の誰か」になる。

これは私たちも同じである。

面倒なことは明日に回す。運動は来月から。老後のことはそのうち考える。

要するに、

「未来の俺、よろしく」

である。

10年後の自分が何を考えているのか、今の私は知らない。価値観も環境も変わっているだろう。

それでも「同じ私だから」と一括りにしている。

過去の自分も同じである

過去についても同じだ。

昔の自分が書いた文章を読んで、

「なんでこんなことを書いたんだ」

と思うことがある。

昔の判断を見て、

「もっとこうすればよかったのに」

とも思う。

これはかなり不思議である。

本当に完全に同じ「私」なら、自分の行動にここまで違和感を覚えるだろうか。

肉体も変わった。知識も増えた。価値観も変わった。置かれている環境も違う。

過去の私は、現在の私にかなりよく似ている。

しかし、完全に同じではない。

未来の私については、もっと分からない。

「私」は一本の線ではないのかもしれない

私たちは普通、

過去の私 → 現在の私 → 未来の私

を一本につながった同じ人間として考える。

しかし実際には、それぞれかなり違う存在なのかもしれない。

昨日の私から今日の私へ、記憶や身体や社会的な責任が少しずつ引き継がれている。

その変化があまりにも連続的なので、「ずっと同じ私が存在している」と感じているだけなのではないか。

テセウスの船も、継ぎ足しのタレも同じだった。

突然全部を交換すれば「別物」に見える。

ところが少しずつ交換すると「同じもの」に見える。

人間もそうなのかもしれない。

10年前の自分と現在の自分を突然並べれば、かなり違う。

しかし、その間に3650日分の「少しずつ変わった自分」が挟まっているから、一人の人間だと感じる。

つまり「私はずっと私である」という感覚は、変化が連続していることによって生まれる錯覚なのかもしれない。

過去の私はもういない。

未来の私はまだいない。

確実に存在しているのは、現在の私だけである。

それでも過去の私が作った借金も失敗も体重も、現在の私にきっちり引き継がれる。

同一人物かどうかは哲学的に怪しいのに、請求書だけは本人確認が完璧なのである。