ノーベル賞を取れない韓国は、本当に研究で劣っているのか?

今年も日本人がノーベル賞を受賞した。

日本にとっては喜ばしいニュースだが、この話題になると、ネット右翼界隈ではなぜかすぐに韓国の話へと飛び火する。

「韓国は今年も自然科学分野でノーベル賞ゼロ」

さらには、韓国のノーベル賞への執着を揶揄する「ノーベル症」などという言葉まで登場する。

韓国には、将来ノーベル賞受賞者が出たときのために、受賞者の胸像を置く台座をあらかじめ用意した大学がある、という話まである。

なかなか意地悪な笑い話だが、韓国社会がノーベル賞を強く意識しているのも事実だろう。

そんな韓国のノーベル賞事情を扱うYouTube動画をいくつか見ていたところ、少し毛色の違う分析に出会った。

韓国人自身が、なぜ自国から自然科学分野のノーベル賞受賞者が出ないのかを、感情論抜きで分析していたのである。

これがなかなか面白かった。

優秀な人材がいても、研究成果は生まれない

動画で挙げられていた問題は、大きく三つある。

一つ目は、短期的な経済効果を重視する研究投資だ。成果が見えにくい基礎研究より、製品化につながる応用研究が優先されやすい。

二つ目は、正解を効率よく導く能力を重視する教育制度だ。試験で高得点を取る能力と、誰も答えを知らない問題に挑戦する能力は、必ずしも同じではない。

三つ目は、研究者に対する短期的な成果主義である。数年単位で結果を求められる環境では、成果が出るかどうかも分からないテーマに何十年も取り組むことは難しい。

ノーベル賞級の発見は、研究開始時点では価値すら分からなかったものも多い。

つまり、優秀な人材を集め、巨額の研究費を投入しても、それだけでは足りない。成果が出ないかもしれない研究を、長期間許容する仕組みが必要なのだ。

まずはイグノーベル賞を目指してみては?

この話を聞いて、ふと思った。

韓国は、まずイグノーベル賞を目指してみたらどうだろうか。

イグノーベル賞は、人を笑わせ、そして考えさせる研究に贈られる賞だ。日本人研究者は常連として知られている。

一見すると、何の役に立つのか分からない研究も多い。しかし、そこが面白い。

「こんなことを調べて何になるんだ?」

その質問に対して、「面白いから研究している」と答えられる環境こそ、基礎研究にとって重要なのではないか。

最初から役に立つことが分かっている研究ばかりでは、誰も予想しなかった発見は生まれにくい。

重要なのは、研究の有用性を最初から決めつけない文化である。

研究者が真顔でくだらないことに熱中できる社会は、案外、科学にとって健全なのかもしれない。

そもそもノーベル賞を目指す必要があるのか

最も印象に残ったのはこの動画ではなく、視聴者からのコメントだった。

「そもそも、すべての国がノーベル賞を目指す必要はないのではないか」

これはなかなか本質的な指摘だと思う。

基礎研究で新しい原理を発見することと、その原理を利用して優れた製品を作ることは、別の能力である。

韓国は半導体やディスプレイなどの分野で、世界的な競争力を築いてきた。これはノーベル賞の受賞数とは関係なく評価されるべき実績だ。

ある国が基礎研究を得意とし、別の国が応用や製品化を得意とする。それぞれの強みを生かして技術が発展するなら、それで何が問題なのだろう。

そもそもノーベル賞は、国家の技術力を総合評価するために作られた制度ではない。

受賞者の数を競うことと、科学技術で社会に貢献することは、必ずしも一致しないのである。

ノーベル賞を目的にした瞬間、何かがおかしくなる

今回の動画が面白かったのは、韓国を持ち上げるでも貶めるでもなく、研究制度そのものを考えさせる内容だったことだ。

日本でも、研究費の配分や短期的な成果主義は繰り返し問題になっている。決して他人事ではない。

科学の発展には、優秀な人材も資金も必要だ。しかし、それ以上に、何の役に立つか分からない研究を許容する余裕が求められる。

ノーベル賞を取るために研究をするのか。それとも、面白いと思った問題を追究した結果、ノーベル賞がついてくるのか。

この順番を間違えると、研究政策までおかしな方向に進みかねない。

ノーベル賞受賞者のために台座を用意するより、何の役に立つか分からない研究のために予算を用意する方が、よほど受賞への近道なのかもしれない。