偉人は人格者でなければならないのか?──マザー・テレサもガンジーも、ただの人間だった

歴史上の偉人について調べていると、ときどき妙な気分になる。

マザー・テレサ、マハトマ・ガンジー。教科書では文句なしの偉人として紹介され、まるで人格まで完璧だったかのように語られている。

ところが、少し掘り下げると、なかなか厄介な話が出てくる。

「あれ? この人、本当にそんな立派な人だったの?」

偉人の功績と人間性は、どこまで切り離して考えるべきなのだろうか。

マザー・テレサは本当に聖人だったのか

マザー・テレサといえば、貧しい人々を救済した慈愛の象徴であり、ノーベル平和賞まで受賞した人物だ。

しかし、彼女が運営した施設については、衛生環境や医療体制の不備、苦痛を宗教的に美化する姿勢などが批判されている。寄付金の使途に関する疑問もある。

さらに皮肉なのは、貧しい人々には質素な施設でのケアを提供しながら、本人は病気になると高度な医療を受けていたという批判だ。

「苦しみには意味がある」と説く人が、自分の苦しみには最新医療を求める。

なかなか考えさせられる話である。

しかし、「貧しい人々を助けた」という実績と、「本人が立派な人格者だった」という評価は、そもそも別の話ではないか。

ガンジーも相当な変わり者だった

インド独立の父、マハトマ・ガンジーも同様だ。

非暴力・不服従運動によって英国の植民地支配に抵抗し、世界中の人権運動に影響を与えた。

ところが、私生活を調べると、かなり奇妙なエピソードが出てくる。

晩年には、自らの禁欲を試すため、若い女性と裸で同じ寝床に入るという行為を実践していた。本人は宗教的な修行のつもりだったようだが、現代の感覚では相当に危うい。

若い頃には黒人に対する差別的な発言も残している。

それでも、インド独立運動における功績が消えるわけではない。

非暴力の思想を説いた人間が、私生活まで模範的だったとは限らない。それだけの話である。

偉人を勝手に聖人にするな

そもそも、私たちは偉人に何を期待しているのだろうか。

優れた政治家なら政治で成果を出せばいい。科学者なら優れた研究成果を残せばいい。

ところが、いったん「偉人」という称号が付くと、なぜか人格まで完璧であることを要求し始める。

私生活も清廉潔白で、家族思いで、弱者に優しく、差別意識もなく、誰に対しても誠実。

そんな人間が本当にいるのだろうか。

歴史上の人物は、後世の人間が都合のいい部分だけを切り取って美化していることも多い。

そして、不都合な事実が出てくると、今度は「偽善者だった」と騒ぎ始める。

勝手に神様に祭り上げておいて、人間だったと判明すると怒り出す。ずいぶん身勝手な話である。

フランス人の割り切りは案外合理的かもしれない

フランスの政治文化では、政治家の私生活と政治的な能力を分けて考える傾向がある。

女性関係が派手でも、政治家として有能なら、それはそれで評価する。

日本では不倫が発覚しただけで政治家が辞任に追い込まれることもあるが、そもそも女性関係と政策立案能力にどれほど関係があるのだろう。

優秀な政治家が人格者とは限らないし、人格者だからといって優秀な政治家とも限らない。

汚職や権力を利用した犯罪なら話は別だが、仕事と無関係な私生活まで持ち出して人物を丸ごと否定するのは合理的とは思えない。

政治家を選ぶのは、立派な人間を表彰するためではない。まともな政治をしてもらうためである。

偉人の功績は、人格検査で消えるものではない

ガンジーの奇妙な私生活が明らかになっても、インド独立運動に果たした役割は変わらない。

マザー・テレサの活動に問題があったとしても、貧しい人々に手を差し伸べた事実まで消えるわけではない。問題は問題として検証すればいい。

大切なのは、功績は功績、問題は問題として評価することだ。

むしろ、歴史に名を残すほどの人物には、普通の人間とは違う強烈な執念や偏った価値観があっても不思議ではない。

そんな人物を、道徳の教科書に出てくるような優等生に仕立て上げる方が無理がある。

そもそも偉人とは、すべてが優れていた人間ではなく、何か一つ、とんでもなく大きなことを成し遂げた人間なのだ。

それなのに、後世の人間は勝手に人格まで完璧だったことにしてしまう。

偉人本人も迷惑だろう。死んでから何十年、何百年も経って、会ったこともない人間たちに人格査定されるのだから。