55歳で山奥に家を建てたら出社命令? ネットの体験談はどこまで実話なのか
先日、ネットでなかなか悲惨な体験談を見かけた。
65歳までリモートワークが続くと信じ、55歳で山奥にマイホームを建てた男性。ところが会社が突然方針を変更し、リモートワークを廃止。「頑張って通勤してください」と言われ、途方に暮れているという。
人生設計が一瞬で崩壊する、実にドラマチックな話だ。
ところがコメント欄を覗くと、同情よりもツッコミが目立つ。
「このメディアはいつも架空の話を書いている」 「どう考えても作り話だろう」 「55歳にもなって、そんなリスクも考えなかったのか」
確かに、会社のリモートワーク制度を10年間保証された権利のように信じ、通勤不可能な山奥に家を建てるというのは、なかなか豪快な人生設計である。
ただ、私はこの手の記事を読むとき、少し違うことを考える。
そもそも、ネットの体験談をすべて額面どおりに受け取る必要があるのだろうか。
実話をそのまま書けない事情
実は、私自身もブログを書いているので、こうした記事の裏事情は多少想像がつく。
日常生活で面白い話を聞いたり、知人の体験から何かを考えたりすることは珍しくない。
しかし、それをそのままブログに書くわけにはいかない。
知人の年齢、職業、住んでいる場所、会話の内容まで正確に書けば、本人や関係者が読んだときに一発で特定される可能性がある。
「これ、俺のことじゃないか?」
そんな連絡が来たら面倒である。ブログ一本のために人間関係を破壊するほど、私も情熱的な作家ではない。
そこで、設定を少し変える。
知人から聞いた話を、YouTubeで見かけた話という設定にする。年齢や職業を変える。場所を変える。複数の出来事を一つのエピソードにまとめる。
伝えたい問題の本質はそのままに、人物や状況を特定されにくくするわけだ。
こうした加工は、個人ブログに限らず、体験談を扱う記事でも行われているのではないかと思う。
55歳の山奥暮らしは、どこから生まれたのか
冒頭の記事も、例えばこんな話が元になっていた可能性はある。
「リモートワークが続くと思って郊外に家を買ったら、会社が週3日の出社になって困っている」
これなら十分ありそうな話だ。
しかし、記事としては少々地味である。
そこで郊外を山奥に、週3出社を完全出社に、年齢を55歳に設定する。さらに「65歳までリモートワークだと信じていた」という条件を追加する。
すると、平凡な会社員の悩みが、一瞬で老後破産寸前の悲劇に変身する。
もちろん、実際にそうした加工が行われたかは分からない。最初から架空の事例として作られた可能性もある。
ただ、ネット記事には読者の注意を引くための演出がつきものだ。
「少し困った人」より「人生が詰んだ人」の方がクリックされる。
記事の中では、人生が破綻しかけている方が商売になるのである。
問題は設定変更か、それとも捏造か
ここで難しいのは、どこまでが許される設定変更なのかという問題だ。
人物を特定されないように年齢や職業を変えることと、記事を面白くするために存在しない不幸を追加することは、同じではない。
前者はプライバシー保護だが、後者は場合によっては捏造になる。
ただし、読者の立場からすると、その境界線は見えない。
実在する人物の話なのか、複数の事例を合成したものなのか、それとも編集者が昼休みに思いついた設定なのか。
画面に表示されるのは、どれも同じ「55歳男性の悲劇」である。
そしてコメント欄では、その人物の判断力や人生設計について、見知らぬ人たちが真剣に説教を始める。
実在するかどうかも分からない人物に対して、人生の先輩たちが全力でマウントを取る。
これもネットならではの光景だろう。
書き手も読み手も、ほどほどに疑う
私自身、ブログでは実際の経験や観察をもとに文章を書いているが、関係者を特定されないために内容を変えることがある。
重要なのは、何を伝えたいかだと思っている。
今回の記事なら、会社の制度を将来にわたって不変だと信じて人生設計を組み立てる危うさだろう。
その問題自体は、主人公が55歳でも45歳でも、山奥でも郊外でも変わらない。
一方で、設定を極端にすればするほど、読者の反応は大きくなる。そこに書き手の誘惑がある。
ネットの体験談は、事実の記録であると同時に、読ませるために構成された文章でもある。
だから私は、こうした記事を読むとき、登場人物の実在性よりも、そこから何を考えられるかを重視するようにしている。
もっとも、この記事を書いている私自身も、トラブル防止のために日常の出来事の設定を少し変えることがある。
つまり、ネット記事の作り話をネタにしたこの話も、どこまで実話なのかは読者には分からない。
ネットの体験談とは、実に便利なものである。