パチンコは賭博ではなく、自衛隊は軍隊ではない――日本が得意な「建前」という魔法

「パチンコはギャンブルなのか?」

普通の人に聞けば、ほとんどが「当然ギャンブルだろう」と答えるのではないか。

現金を投入し、玉を増やし、景品に交換する。そして、その景品を別の場所で買い取ってもらえば現金になる。

いわゆる「三店方式」である。

ところが、法律上はパチンコ営業そのものが直ちに賭博罪に当たるとは扱われていない。

なるほど。直接現金を渡していないから、ギャンブルではないという理屈らしい。

現金が一度景品に化けると、賭博ではなくなる。日本の法律には、なかなか便利な変身機能がある。

しかし、こうした本音と建前の使い分けは、パチンコに限った話ではない。

自衛隊は軍隊ではないという建前

もっと大きな例が自衛隊である。

戦車、戦闘機、護衛艦、潜水艦。組織も装備も、国際的な意味では軍隊そのものだ。

ところが、日本国憲法第9条には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と書かれている。

そこで政府は、自衛のために必要な最小限度の実力は、憲法が禁止する「戦力」には当たらないという解釈を採用している。

海外では日本の自衛隊を Japanese military と呼ぶこともあるが、国内ではあくまで「自衛隊」である。

もちろん、自衛隊という名称だけで合憲性を説明しているわけではない。政府には長年積み重ねてきた憲法解釈がある。

それでも、一般人の感覚からすれば不思議な話だ。

戦闘機を何百機も持っていても、憲法上の「戦力」ではない。どうやら兵器の性能より、法律上の定義の方が重要らしい。

なぜ法律を変えずに、解釈で乗り切るのか

理由は簡単だ。

法律を変えるのは面倒だからである。

国会で議論し、利害関係者を調整し、反対派を説得する。憲法改正なら国民投票まで必要になる。

一方、既存の法律の枠内で解釈や運用を工夫すれば、そうした政治的な負担をある程度回避できる。

パチンコと自衛隊は法的な仕組みも経緯も異なるが、共通するのは、現実の必要性に合わせて制度を根本から作り直すのではなく、既存の枠組みとの辻褄を合わせてきたという点だ。

政治家にとっては、実にありがたい方法である。

制度を正面から変えれば反対運動が起きる。しかし、解釈や運用で対応すれば、面倒な議論を先送りできる。

問題を解決したというより、問題が表面化しないように処理したわけだ。

カジノは駄目で、パチンコはいいのか

この矛盾が分かりやすいのが、カジノの問題である。

日本では長年、カジノ解禁をめぐって議論が続いてきた。

依存症が増える、治安が悪化する、ギャンブルを国が認めていいのか。

さまざまな反対意見が出る。

ところが、日本にはすでに全国各地にパチンコ店がある。

駅前にも郊外にも存在し、長年にわたって巨大な産業を形成してきた。

一方、カジノは特別な法律を整備し、厳格な規制を設けなければ営業できない。大阪では統合型リゾートの開業に向けた計画が進んでいるが、実現までには長い年月を要している。

つまり、既存のパチンコは制度の中で営業を続けられるのに、新しくカジノを作ろうとすると大議論になる。

もちろん、両者の営業形態や法制度は違う。

しかし、利用者が金銭を失うリスクや依存症の問題という点では、共通する部分も多い。

それなのに、片方は既存の娯楽産業、もう片方は特別な法制度が必要なギャンブル施設として扱われる。

どうやら日本では、ギャンブルかどうか以上に、昔から存在していたかどうかが重要らしい。

日本は問題を解決するより、辻褄を合わせるのが得意

こうした仕組みには、現実的な利点もある。

法律を一から作り直さなくても、社会の変化に対応できる。大きな政治的対立を避けながら、既存の制度を維持できる。

しかし、その代償として、一般人には理解しにくい理屈が積み重なっていく。

パチンコは賭博ではない。

自衛隊は憲法が禁止する戦力ではない。

カジノは特別な法律を作らなければ認められない。

それぞれに法律上の説明はある。しかし、全体を並べて眺めると、何とも奇妙な光景である。

本来、法律は社会の実態に合わせて見直していくものだろう。

ところが日本では、法律の建前を守るために、現実の方を複雑な仕組みに押し込めてしまう。

そして、その仕組みが長く続くと、誰もおかしいと言わなくなる。

日本はルールを破ることには厳しい国だ。しかし、ルールを破らずに済むような複雑な抜け道を作ることには、驚くほど寛容なのである。