人間は結局わかりあえない――キリスト教の教義論争から考えた「共存の限界」
先日、YouTubeでプロテスタントの「カルバン主義とアルミニウス主義」の対立について解説する動画を見た。
神が人間の救済条件をどこまで決めているのか、人間の自由意志はどこまで認められるのか。大ざっぱにはそんな議論らしい。
正直、私はキリスト教そのものに興味がない。神学の細かい話になると、何を争っているのか正確には理解できない。
それでも、この手の動画をたまに見る。
今回も、教義の内容より、そこから見えてきた人間の性質の方が興味深かった。
人間というのは、結局、根本的なところではわかりあえない生き物なのではないか。
まともな人たちの、理解できない世界
動画に登場する日本人の解説者たちは、非常に理路整然と話していた。
言葉遣いは丁寧で、議論も論理的。物腰も柔らかい。社会常識を備えた知的な人たちに見える。
ところが、話を聞いていると、あるところで突然、こちらの理解が止まる。
例えば、神が世界を創造したという話だ。
現代科学では、宇宙は約138億年前に始まり、地球は約46億年前に形成されたと考えられている。生物の進化についても膨大な科学的証拠がある。
しかし、キリスト教の一部の立場では、聖書の記述を文字どおりに受け取り、こうした科学的説明を否定する。
もちろん、キリスト教徒が全員そう考えているわけではない。進化論や現代宇宙論を受け入れる教派もある。しかし、動画に登場した人たちは、どうやら聖書の記述を文字どおりに受け取る原理主義的な立場らしい。
普段の会話では、これほどまともに見える人たちなのに、世界を理解する根本の仕組みがまるで違う。
まるで、同じ画面を見ているのに、動いているOSが違うようなものだ。
こちらが当然だと思っている前提が、相手にはまったく通用しない。
しかも、その前提は本人にとって、人生を支える最も重要な部分だったりする。
論理的な人間同士でも、議論は通じない
ここで厄介なのは、相手が非論理的だから話が通じない、という単純な話ではないことだ。
カルバン派とアルミニウス派の議論も、門外漢の私がなんとか理解できるくらいには論理的なのだ。しかし、問題はその論理を組み立てる前の「大前提」が違うことにある。
こちらが科学的証拠を持ち出しても、相手が聖書の権威を絶対的なものと考えていれば、議論は噛み合わない。
逆に、相手が聖書の記述をどれだけ丁寧に説明してくれても、信仰を持たない私には、それが事実であるという根拠にはならない。
どちらも真面目に説明しているのに、永遠に平行線である。
これは宗教に限った話ではない。
政治思想でも、歴史認識でも、人生観でも同じことが起きる。
議論の途中で意見が食い違っているのなら、まだ修正の余地がある。しかし、議論の出発点そのものが違えば、いくら言葉を重ねても埋まらない溝が残る。
人間は、論理が通じないから対立するのではない。互いに異なる前提の上で、論理的に考えているからこそ対立することもあるのだ。
わかりあおうとするほど、争いになる
歴史を振り返れば、宗教や思想の違いをめぐって、どれほど多くの人間が争ってきたことか。
お互いが自分の信じる真実を相手にも認めさせようとする。
最初は議論である。
それでも相手が考えを変えなければ、次第に相手の存在そのものが許せなくなる。
そして最後には、言葉ではなく武器を持ち出す。
もちろん、意見の相違が必ず戦争になるわけではない。しかし、相手の根本的な価値観を否定し、それを改めさせようとすることが、深刻な対立の原因になるのは間違いない。
そもそも、他人の人生を支えている信念を、こちらの理屈で簡単に書き換えられると思う方が傲慢なのかもしれない。
共存の秘訣は、深入りしないこと
では、価値観の違う人間同士は、どうやって共存すればいいのか。
私の考えは単純だ。
わかりあえる部分だけで付き合い、わかりあえない核心には踏み込まない。
仕事なら仕事の話をすればいい。趣味が合うなら趣味の話をすればいい。
相手がどんな宗教を信じていようと、どんな政治思想を持っていようと、日常生活で支障がなければ、それで十分ではないか。
何もかも理解し、価値観まで共有する必要はない。
むしろ、相手を深く理解しようとするあまり、最後には相手の信念を否定することになってしまう方が、よほど危険だ。
世の中では「対話すればわかりあえる」という言葉が好まれる。
しかし、私はそこまで人間を信用していない。
対話によって相手を理解することはできても、相手の考えに納得できるとは限らない。そして、納得できないまま共存することだってできるはずだ。
相手を変えようとしない。自分も変わるつもりはない。それでも、共有できる部分では普通に付き合う。
ずいぶんドライな人間関係だが、これくらいの距離感がちょうどいいのではないか。
今回、キリスト教の教義論争を聞いて、そんなことを考えた。
結局、カルバン主義とアルミニウス主義のどちらが正しいのか、私にはよくわからなかった。
ただ、一つだけ理解できたことがある。
人間は何百年もかけて神の意思について議論してきたが、いまだに人間同士の意思すら一致させられないらしい。