アメリカを覆う日本の「クズ」を見て、外来種と移民について考えた
先日、テレビで外来種の問題をやっていた。
そこで紹介されていたのが「クズ」である。
ツタのような植物で食用にもされる、あのクズだ。
日本ではそこまで恐ろしい植物という印象はない。ところがアメリカでは「Kudzu」と呼ばれ、猛烈な勢いで繁殖して木や電柱、建物まで覆ってしまう厄介者になっているという。
映像を見ると確かにすごい。
一面が緑なので遠目にはきれいなのだが、よく見ると木も電柱も何もかもクズに飲み込まれている。
もともとは日本など東アジアから持ち込まれ、飼料や土壌侵食防止にも利用された。それが現地の環境に適応しすぎて大繁殖した。
日本からすれば、
「うちのクズがすみません」
と言いたくなるような光景である。
外来種というと、日本ではブラックバスなどがよく問題になるが、当然ながら日本も被害者であるだけではない。日本から海外へ渡って迷惑をかけている生物もいる。
ワカメも海外の一部地域では厄介な外来種として扱われている。
味噌汁に入っていると嬉しいものが、場所を変えると駆除対象になる。
生物というのはなかなか難しい。
ところが歓迎される外来種もいる
一方で、外来種だからといって全部嫌われているわけでもない。
例えばホンビノス貝。
北米原産の貝で、東京湾などに定着している外来種である。
ところがこれが普通にうまい。
大きくて食べ応えがあり、漁獲されて商品として流通している。
こうなると人間の態度はかなり変わる。
「外来種が日本の海に!」
ではなく、
「焼くとうまいですね」
となる。
人間とは実に現金なものである。
役に立つ外来種には、急に寛容になる。
そもそも梅だって外から来た
さらに時間軸を長くすると、「外来」という言葉そのものが怪しくなってくる。
梅は中国から日本へ渡ってきた植物である。
しかし今さら梅を見て、
「外来種だ!」
と怒る日本人はいない。
梅干しを食べ、梅酒を飲み、梅の花を見に行く。
完全に日本文化の一部である。
千年以上そこにいるものを「外から来たもの」と呼ぶ意味が、ほとんどなくなってしまったからだろう。
結局、「外来」というのは出身地だけで決まるものではない。
時間とともに社会や環境の中へ溶け込めるかどうかも大きい。
そう考えると、移民の話にも少し似ている
ここまで考えていて、人間社会にも似た話があることに気づいた。
移民である。
もちろん人間と外来生物を同一視する話ではない。
ただ、「外から来た存在を社会がどう受け入れるか」という点では、少し似た構造が見える。
日本にも昔から大陸や朝鮮半島から多くの人々が渡ってきた。
統計などない時代なので実数はわからないが、当時の首都付近の豪族の3割近くが渡来系という記録もある。
古代の渡来人は、文字、技術、工芸、宗教などさまざまなものを日本にもたらし、その後の日本社会に溶け込んでいった。
今、その子孫を探し出して、
「あなたの祖先は外から来た人だから日本人ではない」
などと言っても意味がない。
そもそも血統的には日本最強の天皇家でさえ、母方の先祖には朝鮮系がいるらしい。
問題は「外国人かどうか」だけではない
現在の移民問題を見ると、賛成派と反対派の議論はすぐに、
「外国人を受け入れるのか、排除するのか」
という二択になりがちである。
しかし、本当の論点はそこではないと思う。
重要なのは、社会にどんな形で入り、どのくらいの速度で増え、既存社会とどの程度うまく共存できるかである。
仕事をし、税金を払い、地域社会に参加し、日本語を覚え、次の世代が学校へ通う。
そうやって何十年も暮らしていけば、やがて「外国から来た人」という意識自体が薄れていく。
逆に短期間に急増すれば、住宅、学校、医療、治安、言語など、さまざまな場所で摩擦が起きる。
これは「外国人が良いか悪いか」という話より、受け入れる側の処理能力の問題でもある。
クズになるか、梅になるか
テレビで見たアメリカのクズは、日本から来たという理由で嫌われたわけではない。
最初はむしろ人間が積極的に利用した。それが想定以上に増え、既存の環境を覆い始めた途端、「Kudzu」という厄介者になった。
ホンビノス貝は外来種だが、うまいので食卓に並ぶ。
梅に至っては、もはや外来という経歴そのものが忘れられ、日本文化の顔をして花まで愛でられている。
移民については毎日のように「共生」「排除」「多文化社会」と大論争している。
だが梅の歴史を見る限り、人間社会の最終的な解決策はもっと雑だ。
千年たって誰も覚えていなければ、だいたい解決している。