西洋人が日本のアニメに合わせればいい?
最近、Netflixで『ちいかわ』のアニメ配信範囲が日本と一部のアジア圏に限られていることが話題になっている。欧米市場が含まれていない理由について公式な説明はない。
ところがネットでは、かなり踏み込んだ推測まで出ている。
「欧米に出すと、ポリコレ的な配慮を求められたり、現地の価値観に合わせて作品を改変されたりする。それを避けたのではないか」
「黒いちいかわなんて見たくない」
これは公式発表ではなく、ネット上の推測にすぎない。
ただ、この議論を見ていて思い出した言葉がある。
日本の有名アニメ監督が語ったとされる、
「アニメが西洋に合わせるのではない。西洋人が日本のアニメに合わせるべきだ」
という趣旨の言葉だ。
かなり強い言い方である。
だが私は、この考え方自体はそれほど無茶だとは思わない。
日本のアニメを見るのだから、日本の文化や価値観、表現方法がそのまま出てくるのは当たり前だ。それを自分たちの文化に合わないから変えろというのなら、そもそも何のために外国の作品を見るのだろう。
『ラストサムライ』の忍者は誰のための忍者だったのか
文化を海外に持っていくと、現地の人が期待する「その国らしさ」に引っ張られることがある。
分かりやすいのが、ハリウッド映画『ラストサムライ』だ。
劇中では、黒装束に身を包んだ忍者の集団が主人公たちを襲撃する場面がある。
いかにもハリウッドが想像する「NINJA」の姿である。
この忍者の衣装については、日本側スタッフが時代考証などの面から難色を示したものの、欧米の観客が期待する日本像として黒装束の忍者を登場させる判断が優先された、という制作逸話が知られている。
つまり、「実際の日本がどうだったか」よりも、「西洋人が見たい日本」が優先されたわけだ。
アメリカ資本で、エンターテインメントとして自分たちで作るなら、それも一つの判断だろう。
しかし、日本人が作った作品を海外へ持っていく場合にまで、「欧米人にはこの表現は理解されない」「こちらの価値観には合わない」「こういうキャラクターに変更したほうがいい」と手を入れ始めれば、いつの間にか「日本の作品」ではなく「西洋人が期待する日本作品」に変わってしまう。
ただし、原作改変そのものが悪いわけではない
ここで話を「西洋による日本文化の改変」だけにしてしまうと、本質を外す。
なぜなら原作改変を巡る問題など、日本国内でも昔からいくらでも起きているからだ。
たとえば『攻殻機動隊』。
士郎正宗の原作漫画と、押井守監督のアニメ映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』では、かなり雰囲気が違う。
原作の草薙素子はもっと表情豊かで、作品全体にもコミカルな場面がかなりある。それに対して押井版ではそうした部分が大幅に抑えられ、哲学的で重く、静かな作品になった。
かなり大胆な再解釈である。
しかし、その押井版が世界的に高く評価され、『攻殻機動隊』を海外へ広める大きなきっかけにもなった。
つまり、原作を変えること自体が悪なのではない。
大胆に変えた結果、別の傑作が生まれることだってある。
結局、重要なのは原作者がそれをどう考えているかだ。
「好きにしてください」という原作者もいる
原作者のスタンスもさまざまだ。
アニメ化や映画化について、「映像作品は別物だから、そちらはそちらで自由にやってください」という人もいる。
そういう原作者なら、監督が大胆に設定を変えようが、キャラクターの解釈を変えようが、それも作品の一つの展開になる。
逆に、「ここだけは絶対に変えてほしくない」という原作者もいる。
完成した映像作品を見て、「こんな作品にしてほしかったわけではない」と怒ってしまう話も昔からある。
だから私は、原作改変について「原作には絶対忠実でなければならない」という考え方にも賛成しない。
原作者がOKならOK。原作者が嫌ならダメ。
かなり単純な話だと思っている。
『ぼっち・ざ・ろっく!』では原作者すら「そういうことなんだ」となった
このあたりで面白いのが、『ぼっち・ざ・ろっく!』の話だ。
原作者のはまじあき氏がアニメのアフレコ現場を訪れた際、監督が声優たちに物語について「この話はこういう意図で、このように演じてほしい」と説明しているのを聞き、「これってそういうことなんだ」と妙に納得した、という趣旨のエピソードがある。
その話を作った本人が、アニメスタッフから自分の物語について説明されて、「なるほど」となっているのである。
漫画とアニメでは、物語の組み立て方が違う。
漫画では絵とコマと文字で描かれていた物語が、アニメでは声、動き、間、音楽を伴って再構成される。その過程で、監督、脚本家、演出家、声優が、それぞれの立場から作品の意味や場面の意図を読み取り、具体的な表現へ落とし込んでいく。
うまくいけば、原作者自身も明確には言葉にしていなかった物語の意味が、そこで初めて浮かび上がることもある。
同じ日本人同士で、同じ日本語を使っていて、しかも原作者がすぐ近くにいてさえ、これだけの「解釈」が発生するのだ。
海を越えれば、そりゃもっと揉める
そう考えると、日本の作品を海外へ持っていったときに揉めるのは、むしろ当然に思えてくる。
まず言語が違う。
直訳では意味が通じない言葉がある。敬語や一人称だけで表現されている人間関係もある。日本人なら説明されなくても理解できる学校文化、会社文化、家族観、宗教観もある。
さらに、笑いの感覚も違えば、暴力や性表現、差別とされる表現についての感覚も違う。
翻訳するだけですでに解釈が入る。
そこからさらに、「現地ではこれは受け入れられない」「この設定は変更したほうがいい」「この表現は別のものに置き換えよう」となれば、どこまでが翻訳で、どこからが作品改変なのか分からなくなる。
日本国内のアニメ化ですら原作者と制作側で解釈がズレる。
まして言語も文化も違う国なら、そのズレが大きくなるのは当たり前だ。
「海外では受け入れられない」の海外って誰だ
そして、もう一つ気になる言葉がある。
「海外ではこういう表現は受け入れられない」
海外とは誰なのだろう。
アメリカ人が全員集まって投票したわけではない。
SNSで声の大きな人が騒いでいるだけかもしれない。配信会社の社内基準かもしれない。広告主の判断かもしれない。
一方で、海外の日本アニメファンには、日本の作品だから見ている人も大勢いる。
日本の学校生活が出てくる。日本独特の人間関係が出てくる。食文化も違う。宗教観も違う。自分たちには理解しにくいギャグまで出てくる。
そこまで含めて日本アニメなのである。
外国の作品を見るというのは、本来そういうものだ。
分からなければ調べればいい。「日本ではそうなのか」と知ること自体が、異文化の作品を見る面白さでもある。
西洋人が日本のアニメに合わせればいい
日本人がハリウッド映画を見るときも同じだ。
キリスト教文化が分からなければ調べる。アメリカの高校生活が日本と違っていても、「日本ではそんなことをしないから変えろ」とは言わない。銃社会を描いた作品を見て、日本の法律に合わせて登場人物から銃を取り上げろとも言わない。
その世界に入って楽しむ。
それが外国の作品を見るということだ。
もちろん、原作者自身が「海外向けに変えていい」と判断するなら、それも自由だ。『攻殻機動隊』のように、大胆な再解釈から別の傑作が生まれることもある。
だから問題は、「改変するな」ではない。
誰が改変を望んでいるのか、である。
原作者が望むなら変えればいい。
原作者が望まないのに、「海外市場では受け入れられないから」という理由で外側から作品を作り替えるのは順序が逆だ。
その場合は作品が西洋に合わせる必要はない。
西洋人が日本のアニメに合わせればいい。
理解できないところがあるなら、それも含めて楽しめばいい。
外国の作品を見るとは、本来そういうことなのだから。