話せば分かる、とは限らない——ゴミ屋敷の住人が教えてくれたこと

先日、テレビでゴミ屋敷の住人を取材する番組を見た。

庭から家の中まで物で埋め尽くされ、近所の住民も困り果てている。

こういう人は、まともに会話もできないのではないか。

そんな先入観を持って見ていたのだが、意外なことに、住人はごく普通に受け答えしていた。

レポーターを家の中に招き入れ、質問にもきちんと答える。自分の家が周囲から「ゴミ屋敷」と呼ばれていることも理解している。

ところが、話が「ゴミ」に及んだ途端、世界が変わる。

ゴミではない。まだ使えるのだ

レポーターが、なぜこれほど物を集めるのか尋ねた。

「みんなはゴミだと思っているけど、まだ使えるんですよ」

ペットボトルは洗えば水筒になる。壊れた自転車は修理すれば乗れる。

なるほど。理屈としては間違っていない。

そこでレポーターが聞く。

「実際に使ったことはあるんですか?」

「いや、ないですね」

本人は笑っている。

こちらも思わず笑ってしまうのだが、よく考えると笑い事ではない。

彼にとって重要なのは、実際に使うかどうかではなく、使える可能性が残っているかどうかなのだ。

普通の人なら、何年も使っていない壊れた自転車は処分する。

しかし彼にとっては、修理すれば使える以上、捨てる理由がない。

会話は成立している。理屈も一応通っている。

ただ、出発点が根本的に違う。

だからいくら「これはゴミでしょう」と説明しても、相手には響かない。

向こうからすれば、まだ使える物を捨てようとするこちらの方が、よほど非合理的なのかもしれない。

常識が違う相手とは、どう折り合うのか

この番組を見ていて、以前ニュースで見たイスラム教徒の土葬問題を思い出した。

日本では火葬が一般的だが、イスラム教では原則として土葬が求められる。

そのため、日本国内に土葬できる墓地を求める動きがあり、地域によっては住民との対立が起きている。

イスラム教徒にとっては宗教上の大切な決まりである。

一方、地元住民にとっては、衛生面や地下水への影響、地域の生活環境などが気になる。

ここで厄介なのは、双方がそれぞれの前提に立って話していることだ。

「なぜ火葬ではダメなのか」

「なぜ土葬ではダメなのか」

互いにそう思っていても、前提となる価値観が違えば、話はなかなか進まない。

もちろん、ゴミ屋敷と宗教上の埋葬習慣はまったく別の問題である。

ただ、当事者にとっては当然のことが、周囲には理解しがたいという構造には共通点がある。

話し合いにも限界がある

私たちはよく「話し合えば分かり合える」と言う。

だが、これはお互いがある程度同じ価値観を共有している場合の話だ。

ゴミ屋敷の住人に「これはゴミだ」と言っても、本人は資源だと思っている。

土葬を望む人に「火葬すればいい」と言っても、宗教上の前提が違う。

いくら言葉を重ねても、議論が平行線になることはある。

だから社会には法律や条例、行政上のルールが必要になる。

他人に迷惑をかけない範囲であれば、何を信じようと、何を大切にしようと自由である。

しかし、その価値観が周囲の生活に影響を及ぼすなら、どこかで折り合いをつけなければならない。

そのとき必要なのは、必ずしも相手を説得して価値観を変えることではない。

互いに納得できなくても、共存できる妥協点を探すことなのだろう。

理屈が通じることと、話が通じることは違う

ゴミ屋敷の住人は、最後まで普通に会話していた。

質問にも答えるし、冗談も通じる。

それでも、家の中の物をゴミだとは認めない。

私はそこが一番印象に残った。

人間というのは、会話が成立するからといって、同じ結論にたどり着くわけではないのである。

考えてみれば、これはゴミ屋敷に限った話でもない。

職場でも政治でもネットでも、互いに理屈を並べながら、まったく話が噛み合わないことは珍しくない。

相手が何を言っているかは理解できる。

しかし、なぜそんなことを信じているのかは理解できない。

そして厄介なことに、相手もこちらに対して、まったく同じことを思っているのである。