「死んだら全員仏様」の不気味さ――ネットからアンチが消える理由と、日本人の怨霊信仰
野球評論家の張本勲さんが亡くなった。
現役時代は文句なしの大選手だが、引退後は「喝!」で知られる歯に衣着せぬ発言や傲慢にも見える態度で、たびたび物議を醸した。在日韓国人という出自を理由に攻撃する人までいて、とにかくアンチの多い人だった。
私も好きではなかった。
テレビでの態度や発言を見るたびに反感を覚えていたし、訃報を聞いて突然ファンになったわけでもない。
ところが人間が死ぬと、ネットの空気は驚くほど変わる。
「ご冥福をお祈りします」
「昭和らしい豪快な人だった」
「なんだかんだ言って憎めない人だった」
昨日まであれほどいたアンチは、どこへ行ったのだろう。
アンチは改心したのではなく、黙っただけ
答えは簡単である。
死んだから好きになったわけではない。
黙ったのだ。
生きている有名人なら「嫌いだ」「老害だ」と書いても珍しくない。しかし訃報の記事に「嫌いだった」「死んでせいせいした」と書けば、今度は書いた本人が「不謹慎だ」と袋叩きにされる。
だから批判していた人は消え、もともと好意的だった人と追悼したい人だけが残る。
その結果、コメント欄だけを見ると、死んだ瞬間に世間の評価まで急上昇したように見える。
死者は反論しない。
アンチも黙る。
残るのは追悼コメントだけである。
これほど強力なイメージ改善策も珍しい。
日本では死ぬと急に「仏様」になる
日本には昔から「死者に鞭打たない」という感覚が強い。
さらに面白いのが、亡くなった人を「仏様」と呼ぶことだ。
生前どんな人間だったかは関係ない。
頑固でも、嫌われ者でも、ろくでもない人物でも、死んだ途端に仏様である。
ずいぶん大胆な昇格人事だと思う。
ここで思い出すのが、日本の怨霊信仰である。
日本史には、恨みを残して死んだ人物を恐れ、手厚く祀る話が何度も出てくる。
代表格が菅原道真だ。
政争に敗れて太宰府へ左遷され、その地で亡くなった。その後、都で落雷や疫病などが相次ぐと道真の怨霊の仕業だと恐れられ、やがて天神として祀られるようになった。
平将門も似ている。
朝廷に反乱を起こして討たれた人物なのに、死後は強力な霊として恐れられ、各地で祀られた。
敵だった人間を倒して、
「これで安心」
とはならない。
むしろ死んでからの方が怖い。
だから祀る。場合によっては神様にまでしてしまう。
日本史を見ていると、**「祟られるくらいなら、とりあえず偉い人にしておこう」**という凄まじい危機管理が時々出てくる。
「死者を敬う」と「歴史を書き換える」は違う
現代人がSNSで故人を批判しないのは、文字通り怨霊を恐れているからではないだろう。
だが、死んだ人間を悪く言わず、むしろ良かった部分を探して持ち上げる感覚には、昔から続く日本人の死者との距離感を連想する。
私はここに少し不気味さを感じる。
死者を罵倒する必要はない。
しかし、死んだからといって生前の言動まで変わるわけではない。
嫌われていた人には嫌われる理由があった。問題のある発言をしたなら、その事実も残る。
ところが訃報が出ると、それまでの批判まで封印しなければならないような空気になる。
そして時間が経つと、
「多少口は悪かったけど、本当は愛情のある人だった」
「今ではああいう人も必要だった」
と、人物像まで少しずつ丸く加工されていく。
死者を悼むことと、生前の評価を書き換えることは別である。
死んだら全員仏様
私は張本さんが亡くなったからといって、急に好きになったわけではない。
だからといって訃報の記事へ行って悪口を書こうとも思わない。
嫌いだった人が死んだ。
それだけである。
たぶん、それくらいの距離でいい。
しかしネットを見ると、人間は死んだ瞬間から少しずつ聖人化されていく。
生きている間は好きなだけ叩く。
しかし死んだ瞬間、悪口は消え、「実はいい人だった」という話が始まる。
日本では成仏するのに修行はいらないらしい。訃報が一本流れればいい。