未来は「しょぼい形」で実現する――SFの予測と、変わらない日常のリアル

まだインターネットが一般家庭に普及する前、私が10代だった頃、未来の情報化社会を描いたドキュメンタリードラマを見た記憶がある。

タイトルも細かいストーリーも覚えていないが、ネットワークで社会中の情報がつながり、個人情報を何者かに悪用された主人公が犯罪者か何かに仕立て上げられてしまう。そんな話だったと思う。

当時はインターネットもスマートフォンもない。そこで登場した未来の情報端末は、記憶が正しければ当時のパソコンを小型化して高性能にしたような機械だった。当時から見た将来のコンピュータのイメージだろう。

今見れば猛烈にダサいはずだ。

ところが、そのドラマが予想した未来そのものは、かなり当たっていた。

予言は当たった。ただし見た目が違った

社会はネットワークでつながり、個人情報はコンピューターで管理されるようになった。世界中の人間が端末を持ち歩き、文章も写真も動画も瞬時に送れる。個人情報を盗まれて犯罪に巻き込まれる事件まで現実に起きている。

むしろインターネットとスマートフォンは、当時のドラマが想像した世界をはるかに追い越してしまった。

ただ、一つ大きく外れたものがある。

未来の見た目である。

SF作品では、未来になるとなぜか部屋まで未来になる。家具も服も車も妙に未来的で、生活全体が一つのデザインで統一されている。

ところが現在、自分の部屋を見渡してみると大して変わっていない。

机も椅子もベッドもある。テレビは薄くなり、紙の本の一部がスマートフォンやタブレットに変わったくらいで、人間が暮らす空間そのものは昔と変わってない。

スマートフォンは昔のSFを超える機械なのに、それを使っている人間は昔と大して変わらない椅子に座っている。

未来は来たのに、未来っぽくない。

現実は必要なところしか変わらない

映画やドラマが未来を描くなら、一目で未来だと分からせる必要がある。

2050年という設定なのに、登場人物が普通のマンションで普通のテーブルを使っていたら現代ドラマにしか見えない。だから透明なディスプレイや奇妙な家具を置いて、街まで未来にしてしまう。

現実はそんなに律儀ではない。

インターネットは世界を変えたが、椅子の形まで変える必要はなかった。スマートフォンが登場しても茶碗はそのままだし、生成AIが登場しても私は相変わらずキーボードを叩いている。

技術は劇的に進歩しているのに、生活の大部分は古いものをそのまま使う。

だから現実の未来は、SF映画ほど統一感がない。

ものすごく新しい技術と、昔からある日用品が雑然と同居する。

少しチープだが、おそらく未来とはそういうものなのだ。

人型ロボットも、たぶん地味な場所にいる

最近、フィジカルAIや人型ロボットの話をよく見る。

AIがコンピューターの画面から出て、工場で働き、荷物を運び、人間と同じ道具を扱う。こういう話を聞くと、すぐに一家に一台のロボットがいて、料理から掃除、介護までやってくれるSF的な未来を想像してしまう。

しかし、仮に人型ロボットが技術的に成功しても、最初に普及する場所はもっと地味だろう。

スーパーの閉店後に品出しをしたり、倉庫で箱を運んだり、工場で部品を扱ったり、ゴミ処理施設で危険な作業をしたりする。街でたまに見かけても「あ、ロボットいるな」で終わる程度の存在になる。

ロボット革命が起きても、われわれは普通のスーパーで普通の大根を買って帰る。ただ、その大根を棚に並べたのが人間ではなかった。

革命という割には、ずいぶん地味である。

家庭への導入はさらに難しい。工場なら床を平らにし、通路を決め、ロボットが働きやすい環境を作れるが、家庭では子供が走り、猫が横切り、床には物が落ちている。家具の配置も家ごとに違う。

だからフィジカルAIが巨大産業になったとしても、一般人からは案外見えない可能性がある。工場や倉庫の裏側で何百万台も働いていれば、それだけで十分だからだ。

AIが人間そっくりになっても、たぶん慣れる

AIについても似たことが起きると思う。

今よりはるかに自然に会話し、こちらの冗談を理解し、長い付き合いを記憶するAIが登場すれば、最初は「人間と区別がつかない」「ついにAIに自我が」と大騒ぎするだろう。

しかし数年もすれば慣れる。

本当に自我が存在するのか、極めて精巧に自我を演じているだけなのかは哲学的には大問題だが、日常生活では便利なら使うし、料金が高ければ解約する。

人類史上最大級の哲学問題が、最後にはサブスクリプションの料金比較になる。

現実というものは、そのくらい身も蓋もない。

コンクリートはアップデートできない

未来がまだら模様になる最大の理由は、デジタルと物理世界では変化する速度がまったく違うことだ。

ソフトウェアなら一晩で更新できる。AIモデルも数年で別物になる。

しかし建物や道路、鉄道、下水道はそうはいかない。建物は数十年使うし、都市そのものを「バージョン2.0」にアップデートすることはできない。

2050年になっても、2020年に建てられたマンションは普通に残っている。そこを2050年のAIを搭載したロボットが歩く。

頭脳は2050年なのに、廊下は2020年製である。

おそらく、これが現実の未来だ。

技術が完成しても、人間社会はすぐには変わらない

もう一つの壁が社会制度である。

典型的なのが自動運転だ。

技術的に十分な性能へ到達しても、翌日から日本中の道路で完全自動運転が解禁されるわけではない。

事故が起きたらメーカー、AI開発会社、車の所有者の誰が責任を負うのか。保険をどうするのか。機械による事故を社会がどこまで許容するのか。

こうした問題は、コンピューターを100倍速くしても解決しない。

だから実際には、高速道路だけ、特定地域だけ、決められたルートだけ、といった限定的なところから入ってくる。

技術は未来でも、導入するのは相変わらず人間なのである。

未来はいつも少しチープだ

子供の頃に見たドラマでは、情報化社会の人間は未来的な部屋で未来的な端末を操作していた。

実際に情報化社会は来た。それも当時の想像を超える規模で来た。

ただし私は、普通の部屋でスマートフォンを触っている。

おそらくフィジカルAIも同じだろう。

昭和に建てられたビルの中を最新AIを積んだロボットが歩き、古い商店街の裏を自動運転の配送車が走る。人間と区別できないほど自然に話すAIに、われわれは「月3000円は高い」と文句を言う。

新しいものと古いものが雑然と混ざった、妙に生活感のある未来である。

たぶん未来というのは、遠くから見るとSFで、住んでみると意外としょぼい。

30年後の人間も、最新AIに愚痴を言いながら、今と大して変わらない椅子に座っているのだろう。