白骨遺体が出た土地に家が建った――「時間」という名の禊

先日、近所を散歩していて、ふと足が止まった。

長年コインパーキングだった場所に、立派な一戸建てが建っていた。

かなり重厚な造りの家で、いかにも新築という真新しさがある。

私はこのあたりで生まれ育ったので、昔の風景もよく覚えている。

だから、その家を見た瞬間に思った。

この家を買った人は、ここから昔、白骨遺体が出たことを知っているのだろうか。

子供の頃、ここはニュースになった

私が子供の頃、その場所には古い木造アパートが建っていた。

そのアパートが取り壊されることになり、工事をしていたところ、土の中から白骨化した遺体が見つかった。

当時はかなり大きな事件になった。

テレビのニュースでも連日取り上げられ、近所でも当然話題になった。

子供だった私にも強烈な記憶として残っている。

その後、アパートはなくなった。

事件もいつしかニュースにならなくなった。

そして、その土地はコインパーキングになった。

それから長い時間が流れた。

車が入って、駐車して、出ていく。

また別の車が入る。

そこに住む人はいない。

そんな状態が何年も、何十年も続いた。

そして気がつけば、昔の事件を知っている人間のほうが少なくなっていた。

日本人が気にする「事故物件」

日本には「事故物件」という言葉がある。

殺人、自殺など、人の死にまつわる事情があった住宅を避ける人は多い。

不動産取引では、こうした事情が「心理的瑕疵」として扱われることもあり、国土交通省も告知についてガイドラインを定めている。

ただ、法律や不動産取引の話とは別に、私は日本人のこうした感覚の奥には、もっと古いものがあるように思う。

「穢れ」だ。

穢れは、単なる「汚い」という意味ではない。

特に死は、古くから穢れと強く結びつけられてきた。

だから日本には、禊という発想がある。穢れを消す概念である。

何か良くないことがあった場所を清める。

塩をまく。

神主を呼ぶ。

お祓いをする。

現代人の多くは、普段から神道の教義を意識して生活しているわけではない。

それでも、「人が死んだ部屋はちょっと嫌だ」という感覚はかなり強く残っている。

面白いのは、それが物理的な問題ではないことである。

壁を張り替えても嫌だ。

床を新品にしても嫌だ。

建物そのものを壊しても、「この土地で昔……」と聞けば気になる。

汚れなら洗えば落ちる。

しかし、穢れはそう簡単には落ちない。

禊が必要である。

駐車場だった時間には意味があったのか

そこで、あのコインパーキングのことを考えた。

なぜ事件のあった土地は、長い間駐車場だったのだろう。

もちろん実際の理由は知らない。

土地所有者の事情かもしれないし、単に駐車場として運用するのが合理的だっただけかもしれない。

ただ、結果として見ると、あの長い空白期間は奇妙な役割を果たした。

事件直後に新築住宅を建てて、

「白骨遺体が発見された土地に建つ新築一戸建てです」

と言われれば、かなり強烈である。

しかし10年経つ。

20年経つ。

30年経つ。

その間は駐車場。

事件を知っていた人が引っ越す。

子供だった人間が大人になる。

新しい住民が入ってくる。

ネット検索しても簡単には出てこないほど昔の出来事になっていく。

そして、ある日そこに新築の家が建つ。

土地は同じである。

緯度も経度も変わっていない。

それなのに、人間の感じ方はまったく違う。

考えてみれば不思議な話だ。

「時間」という名の禊

お祓いなら数十分で終わる。

しかし、人間の記憶に残ったものを消すには、それでは足りないことがある。

そこで必要になるのが時間なのかもしれない。

雨が降る。

夏が来る。

冬が来る。

車が何千台もその上を通る。

事件とは何の関係もない日常が、その場所に少しずつ積み重なっていく。

そうして「あそこで遺体が見つかった」という土地が、

「あそこのコインパーキング」

になり、やがて、

「あそこに新しい家が建った」

という場所になる。

場所は動いていないのに、記憶のほうが上書きされていく。

そう考えると、あの土地が駐車場だった長い年月そのものが、一種の禊だったようにも見えてくる。

水で洗うのではない。

時間で洗う。

人間の記憶が薄くなるまで待つ。

知らなければ、そこには何もない

そして、もう一つ面白いことがある。

新しくあの家に住む人が、昔の事件を知らなかったとする。

その人にとって、そこは何の変哲もない新築住宅である。

気味が悪いとも思わない。

夜、一人でいても怖くない。

庭を掘ることにも抵抗はない。

ところが誰かから、

「昔、ここから白骨遺体が出たんですよ」

と聞いた瞬間、同じ家が違って見える。

建物は一ミリも変化していない。

土地も変わっていない。

変わったのは、頭の中に情報が一つ追加されただけである。

それだけで、人間は昨日まで何とも思わなかった場所を怖がることができる。

そう考えると、穢れというものは土地に付着しているのではなく、人間の記憶の中に付着しているものなのかもしれない。

だから記憶が消えれば、穢れも消える。

そして時間は、どんなお祓いよりも確実に人間の記憶を削っていく。

何十年も経てば、事件も「昔話」になる

新築の家の前を通り過ぎながら、少し妙な気分になった。

私は知っている。

子供の頃、ここに古いアパートがあったことを。

そこから白骨遺体が見つかって、大騒ぎになったことを。

その後、長い間駐車場だったことを。

しかし新しく住む人にとっては、そんなことは自分が生まれる前の話かもしれない。

その家で食事をする。

テレビを見る。

子供が育つ。

庭に花を植える。

そういう普通の日常が何年も積み重なれば、今度はそちらが土地の新しい記憶になる。

おそらく街というものは、ずっとそうやって作られてきたのだろう。

東京のように何百年も人が暮らしてきた場所なら、土地を掘れば昔の人間の痕跡などいくらでも出てくる。

われわれが知らないだけである。

そして、知らないから普通に暮らせる。

あの土地の穢れは、何十年という時間によってきれいに洗い流されたのだろうか。

それとも、われわれが忘れただけなのだろうか。

たぶん土地にとっては、どちらでも同じなのだ。

穢れを清めるのは禊ではなく、最後は人間の忘却なのかもしれない。