将棋の女性棋士を見ていたら、なぜかジョーカーの女を思い出した
最近、将棋界で女性が「プロ棋士」の世界に挑戦するニュースを見た。
将棋には女性を対象とした「女流棋士」という制度がある。一方、一般に「棋士」と呼ばれるプロの世界は男女共通の制度なのだが、これまで女性は一人も棋士になっていない。
そして今、その最初の一人が誕生するかもしれないということで注目されている。
考えてみると、これは不思議な話である。
将棋は100メートル走ではない。
腕力も身長も関係ない。
椅子に座って駒を動かす競技なのに、なぜこれまで女性棋士が一人も誕生しなかったのか。
男は「両端」に多いという説
ここで時々出てくるのが、「男女では知能の平均値よりも、ばらつき方が違うのではないか」という説である。
平均的な知能には大きな男女差がなくても、男性の方が分布の両端に広がりやすい。
ものすごく頭のいい人も男性に多いが、その反対側も男性に多い、という話だ。
つまり男は天才を生みやすい代わりに、逆方向にも豪快に振り切れる。
なんともコストパフォーマンスの悪い設計である。
もしこの説が正しいなら、将棋のプロのように「平均的に頭がいい」程度ではまったく足りず、何万人、何十万人の中から極端な才能を選び出す世界では、男性が多くなる可能性はある。
ただ、私はこの説だけですべて説明できるとは思っていない。
もう一つ、昔見た映画の妙な場面を思い出したからだ。
ジョーカーが帰ってくると、突然馬鹿になる女
バットマン関連の作品だったと思う。
ジョーカーの恋人らしき女性が、一人でいるときには難しそうな本を読んでいる。
ところがジョーカーが帰ってくる。
すると本を読むのをやめ、突然ちょっと頭の悪そうな女として振る舞い始める。
細部は記憶が曖昧なのだが、この場面だけ妙に覚えている。
つまり彼女は馬鹿なのではない。
馬鹿を演じている。
ジョーカーの前では、その方が都合がいいのだ。
これを見たとき、なかなか面白い描写だと思った。
難しい本を理解する知性と、「ここでは知性を見せない方がいい」と判断する知性。
後者まで含めると、どちらが賢いのか分からなくなってくる。
東大だけを見ると、やはり不思議である
似た話として思い浮かぶのが東京大学である。
東大は長い間、女子学生が少ないことで知られている。
しかし今の日本で、「女性は大学に行かない」という時代ではない。大学全体では女子学生の割合は上がっている。
むしろ、かつて「女性のための大学」として存在感を持っていた女子大学の方が、志願者減少などで苦境に立たされているほどだ。
それなのに東大では、なぜか女性が少ない。
まさに東大特有の現象に見える。
ここで地方に住む親の立場だったらと想像する。もちろん勝手な妄想である。
「地方から東京へ出てまで東大を目指さなくてもいいんじゃない?」
「近くにも大学はあるし、娘は自宅から通える学校に行ってほしい。」
すくなくとも、東大を目指すことに反対はしないけど積極的に後押しもしない。
そんな雰囲気を忖度して、子どもも、自宅から通える範囲のそれなりの学校に進学する。
ここで面白いのは、単純な能力の話ではないということだ。
能力があることと、その能力を使ってどこまで行こうとするかは、別の話なのである。
将棋でも同じことが起きているのか
将棋でも、同じことが起きているのかもしれない。
プロ棋士になるには、子供の頃から膨大な時間を将棋に投入する必要がある。
地方住みの子どもは、週末に東京か大阪にある将棋会館に通わなければならない。
そこにいかないと全国のトップレベルのライバルと対局ができないからだ。
問題は、同じ才能を持った男の子と女の子がいたとして、同じ確率でそのプロの道を目指すのかということだ。
ここには、生まれつきの能力差だけでなく、競技人口、育て方、周囲の期待、本人の選択まで入ってくる。
だから、女性棋士がこれまで一人もいないという結果だけを見ても、原因までは分からない。
ジョーカーの女が「馬鹿だった」のではなく「馬鹿を演じていた」ように、外から見える結果と、その人が持っている能力は必ずしも同じではない。
将棋なら、盤の前に座った人間の強さは勝敗で分かる。
分からないのは、才能があったのに、最初から盤の前に座らなかった人である。