『ちいかわ』を観たはずなのに、なぜ大人だけ戦争と宗教を見て帰ってくるのか
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観てきた。
ちいかわなので、当然かわいい。
ところが話そのものは、なかなかハードである。
人魚の肉を食べたことで永遠の命を得てしまった者がいる。その一方には、子どもを食べられて復讐に燃える人魚の親がいる。しかも話をたどっていくと、そもそも人魚の親のせいで子人魚の肉を食べるしか選択肢がなくなった事情が出てくる。そして復讐が別の悲劇を生み、それがさらに次の行動を引き起こすという、かなり嫌な因果関係になっている。
そして主人公のちいかわたちは、名探偵のように事件を解決するわけでもない。
圧倒的な力で悪を倒すわけでもない。
巨大な不条理の中に放り込まれ、ほとんど何もできないまま巻き込まれていく。
さらに救われないのは、分かりやすい悪人がいないことだ。
最初から誰かが邪悪だったわけではない。それぞれに理由があり、それぞれの行動が次の不幸を生み、気がつけば誰にも止められなくなっている。
ボタンの掛け違いだけで地獄が完成する。そして最後まで憎しみは残ったままで終わってしまう。
かわいいキャラクターで何をやってるんだ。
ちいかわを見て、なぜか国際政治が見える
しかし、この映画で面白かったのは、スクリーンの中だけではなかった。
観た人たちの感想を眺めていると、解釈がものすごくバラバラなのだ。YOUTUBEを見ると
国際政治に詳しい人なら、報復が次の報復を生む構造を見て、国家間の戦争や紛争を連想する。
社会問題に関心がある人なら、情報の非対称性や村と人魚、ちいかわたちとの社会構造を見る。
宗教に詳しい人なら、罪と罰、復讐、救済の不在といったテーマを読み取る。
同じ映画を観ているはずなのに、出てくる話がまるで違う。
ここまで来ると、映画の感想というより、その人の頭の中を見せてもらっているような気分になる。
映画が何を描いているかだけではない。
観客が普段何を考えているかによって、映画の中から拾ってくるものまで変わる。
ちいかわが巨大な鏡になって、観客の頭の中を映しているようで面白い。
そして子供は「かわいかった」と帰っていく
さらに面白いのが、大人と子供の温度差である。
大人は映画を観ながら、
「これは復讐の連鎖なのではないか」
「誰にも悪意がないのに悲劇が拡大していく」
「罪とは何か。救済とは何か」
などと、頼まれてもいないのに人類の難問を背負い始める。
映画が終わる頃には、かわいいキャラクターを観に来たはずなのに、人間社会の不条理について考え込んでいる。気分としては、ちいかわというよりドストエフスキーである。
そして隣を見る。
子供がニコニコしている。
「ちいかわ可愛かったー! ポップコーンおいしかった!」
以上。
復讐の連鎖もない。
罪と罰もない。
救済の不在もない。
国際政治もない。
ちいかわとポップコーンしか残っていない。
同じスクリーンを2時間近く見ていたはずなのに、大人は人類の業を背負って映画館を出て、子供は「ちいかわかわいかった」と帰っていく。
ここまで来ると、どちらが作品を正しく理解しているのか分からない。
むしろ、余計な知識を大量に詰め込んだ大人のほうが、勝手に映画を難しくしている可能性すらある。
政治学者には政治が見える。
宗教に詳しい人には宗教が見える。
社会問題を追っている人には社会が見える。
そして子供には、ちいかわが見える。
たぶん一番ちゃんと『ちいかわ』を観ていたのは、子供である。
大人は1800円払って人間社会の不条理を持ち帰り、子供はちいかわを持ち帰った。
どう考えても、子供のほうが元を取っている。