「感動」の消費財化――24時間テレビと「感動ポルノ」の根深い構造
また今年も24時間テレビの季節がやってきた。
そして毎年、同じ議論が始まる。
「偽善だ」
「偽善でも募金が集まるならいいじゃないか」
もはや番組本編だけでなく、この論争まで含めて夏の恒例行事になっている。
私自身、募金が集まり、福祉に使われることまで否定するつもりはない。善意で募金している人を馬鹿にする気もない。
ただ、この番組には昔から妙な胡散臭さを感じる。
障害者が登場すると、なぜか必ず「感動する話」になるからだ。
障害者は、なぜ毎回何かを克服しなければならないのか
この違和感には名前がある。
**「感動ポルノ(Inspiration Porn)」**である。
障害者を、健常者が感動したり勇気をもらったりするための対象として消費する。それをポルノになぞらえた概念だ。
言われてみれば不思議である。
障害者が普通に飯を食っている。ゲームをしている。仕事の愚痴を言っている。昼まで寝ている。
そんな姿では番組にならない。
何かに挑戦し、過酷な練習をして、周囲が応援する。そして感動的な音楽が流れ、「障害を乗り越えた」という物語になる。
しかし障害者にも、頑張りたくない日はあるだろう。
段差を自力で乗り越える訓練をするより、「最初からスロープを付けてくれ」と思う人だっている。
福祉とは本来、そちらの話ではないのか。
「本人が頑張る話」にすると社会は楽になる
感動物語の便利なところは、社会の問題を個人の努力に変換できることだ。
階段を上れないなら頑張って上る。社会参加が難しいなら勇気を出して挑戦する。
しかし本来なら、
「なぜここにエレベーターがないのか」
「なぜこの制度では働きにくいのか」
「なぜ介助サービスが足りないのか」
という話もある。
こちらを掘り下げれば、法律、予算、行政、社会保障の問題になり、最後は政治にぶつかる。
ところが、
「障害を持つ○○さんが、仲間に支えられてついにゴールしました!」
ならきれいに終われる。
出演者は泣く。視聴者も泣く。スポンサーも困らない。
社会の問題を個人の努力の物語に変換すると、テレビ番組として非常に扱いやすいのである。
福祉を24時間語るのに、政治の話はしない
24時間も福祉、障害、貧困、災害支援について放送するなら、政治の話を避けるほうが難しいはずなのだ。
障害者福祉には予算が関係する。介護には制度が関係する。貧困には雇用政策や社会保障が関係する。災害復興には行政が関係する。
ところが24時間テレビを見ていて、政治そのものを正面から扱う場面はほとんど記憶にない。
以前、出演した芸能人が番組中に政治に関する話をしたことがあった。私はその放送を実際に見ていたが、見事なくらい周囲に拾われず、そのまま流されていった。
あれは妙に印象に残っている。
放送している日本テレビの政治的スタンスも与党寄りというのは公然の事実だ。
その局が年に一度、「社会の弱い立場の人たちを救おう」と巨大チャリティー番組を放送する。しかし、その人たちを取り巻く制度や政策、つまり政治の責任には深く踏み込まない。
代わりに「みんなの善意で助けよう」となる。
私にはここがどうにも胡散臭い。
社会の仕組みを変える話ではなく、視聴者の善意で穴を埋める話になっているからだ。
そして、なぜか芸能人が走る
この番組はチャリティーであるはずなのだが、出演者にギャラが支払われる。
人によっては辞退する人もいるらしいが、この点を明確にしない態度も多くの人がモヤモヤするポイントである。
そしてさらに謎なのがマラソンである。
なぜチャリティーをすると芸能人が長距離を走らなければならないのか、私はいまだによく分からない。
障害者福祉とマラソンに直接の関係はない。
しかし長時間走れば苦しい。苦しければドラマになる。足を痛めれば心配になる。仲間が応援すれば友情になり、最後にゴールすれば泣ける。
要するに、感動を製造する装置として非常に優秀なのだ。
しかも、このマラソンには昔から「本当に全区間を走っているのか」という、いわゆるワープ疑惑まである。
疑惑が事実だったと断定する話ではない。面白いのは、それをきっかけにネット民がランナーを実際に追いかける「24時間マラソン追跡」の文化まで生まれたことだ。
チャリティー番組のランナーを、**「本当に走っているか確認するためにネット民が追跡する」**のである。
番組が感動を作り、ネット民がその裏側を検証してXに投稿する。
こちらまで含めて24時間テレビになっている。
「偽善でも金が集まればいい」は万能カードではない
24時間テレビを批判すると、
「偽善でも募金が集まるならいいじゃないか」
という反論が必ず出てくる。
実際に金が集まり、それが福祉に使われるなら意味はある。しかし、それで番組の演出まで無条件に正当化されるわけではない。
障害者を「可哀想な人」「困難を克服する人」「健常者に勇気を与えてくれる人」という狭い枠に押し込めれば、それ自体が障害者に対するイメージを作る。
障害者は別に、われわれを感動させるために生きているわけではない。
頑張らない人がいてもいい。性格の悪い人がいてもいい。酒を飲んでくだらない話をしていてもいい。
それが普通の人間である。
ところが「感動」という商品を作るには、普通では困る。
可哀想で、頑張って、最後には何かを達成してもらわなければならない。
そのほうがテレビの物語になるからだ。
批判まで含めて夏の終わりの風物詩
24時間テレビは1978年から続いている。
感動ポルノだと批判されても続く。マラソンも続く。ネットでは「今年も始まった」と批判され、誰かが「偽善でもやらないよりマシ」と反論する。
そしてマラソンを追跡する人まで出てくる。
ここまで来ると、24時間テレビを作っているのは日本テレビだけではない気がしてくる。
番組を見て泣く人。募金する人。「感動ポルノだ」と怒る人。マラソンを追跡する人。SNSで茶化す人。
全部まとめて、一つの巨大な恒例行事である。
蝉が鳴き、甲子園が終わり、24時間テレビが始まり、ネットで批判が始まる。
批判するところまで含めて、すっかり夏の終わりの風物詩なのである。