「1人の愚行」が「全員の罪」になる――YouTubeが増幅する偏見の構造

撮り鉄が、勝手に民家の木を切って警察に逮捕されたそうだ。

そのニュースをネタにして、切り抜きが大量に発生している。タイトル曰く

「これが撮り鉄の実体だ!」「撮り鉄のモラルなんてこんなもの」

最近、YouTubeを見ていると、特定の集団を叩く動画がやたらと目につく。

似たようなネタでは、イスラム法学者が「日本人女性と結婚して日本をイスラム化しよう」と発言したとされる話題。

どちらも特定の個人による行動や発言である。

ところが、コメント欄を見ると、いつの間にか話が大きくなっている。

「だから撮り鉄はクズなんだ」 「イスラム教徒は日本を侵略しようとしている」

たった1人の行動が、いつの間にか集団全体の本性を証明する証拠になっている。

この論理の飛躍が、実に興味深い。

人は嫌いな相手の悪事を待っている

なぜ、こうしたニュースは簡単に拡散するのか。

理由は、もともとその集団に対する反感が存在しているからだ。

撮り鉄については、以前から撮影マナーの悪さが問題になっている。イスラム教についても、宗教的な価値観の違いや過激派の存在から、警戒感を抱いている人がいる。

そこへ、極端な行動を取る人物が登場する。

すると、それまで漠然とした嫌悪感を持っていた人たちは、待ってましたとばかりに飛びつく。

「ほら見ろ。やっぱり俺の考えは正しかった」

心理学でいう確証バイアスである。

そしてYouTubeのアルゴリズムは、こうした心理と相性がいい。

怒りを誘う動画ほどクリックされ、コメントが集まり、さらに拡散する。同じような動画を見続ければ、似た意見ばかりが集まるエコーチェンバーも生まれる。

やがて、個人の問題行動が、集団全体に共通する性質であるかのように認識されていく。

「一部の人間だから関係ない」で済むのか

ただし、ここで「一部の人間の問題だから、集団全体を批判するのは差別だ」と片付けるのも違うと思う。

例えば撮り鉄の問題。

迷惑行為が繰り返し確認されている以上、鉄道ファンのコミュニティにも、マナーの改善や問題行動を許さない姿勢が求められる。

イスラム教徒についても、日本で暮らす以上、日本の法律や社会のルールを尊重する必要がある。宗教的な信念を理由に、日本社会へ一方的な要求を押し付ければ反発が生まれる。

「偏見を持つな」と周囲に要求するだけでは、不信感は解消しない。

一方で、問題行動を批判することと、同じ属性を持つ無関係な人間に責任を負わせることは別だ。

YouTubeにとって、怒りは最高の商品

そして、この構造で最も得をするのは誰か。

過激な動画を作る人間である。

「撮り鉄の1人が問題を起こしました」では、それほど再生されない。

しかし、「撮り鉄の異常な本性が明らかに!」とすれば、途端に興味を引く。

個人の発言を「イスラム教徒が日本侵略を宣言!」と置き換えるのも同じ手法だ。

視聴者は怒り、コメントを書き込み、動画を拡散する。

批判する側は正義を実行しているつもりだが、実際には動画投稿者の収益に貢献している。

ここで厄介なのは、取り上げられた事件が事実であっても、そこから導かれる結論まで正しいとは限らないことだ。

しかし、怒っている人間にとって、そんな論理の区別はどうでもよくなる。

結局、人は自分の偏見を確認したい

こうした動画を見ていると、人間は必ずしも真実を知りたくてニュースを見ているわけではないのだと感じる。

むしろ、自分が以前から嫌っていた相手について、「やっぱり悪いやつだった」と確認したいのである。

そこにYouTubeが、都合のいい証拠を次々と提供してくれる。

実際の迷惑行為や過激な思想は批判すべきだし、当事者コミュニティにも問題を改善する努力が求められる。

しかし、個人の問題を集団全体の罪にするのは、まったく別の話だ。

1人の愚行を全員の罪にするのは、論理としては雑だが、商売としては実に優秀である。

そして今日も、誰かが「やっぱりアイツらは!」と怒りながら動画をクリックする。

投稿者にとっては、撮り鉄もイスラム教徒もどうでもいい。

一番大切なのは、怒っている視聴者が次の動画も見てくれることなのだから。