祈っても病気が治らない――宗教は都合の悪い現実をどう説明するのか

先日、ある人生相談を読んでいたら、宗教に関する悩みが投稿されていた。

ある宗教を信仰しているのだが、いくら祈っても期待したような効果がない。どう考えればいいのだろうか、という相談である。

これを読んで、宗教というものの難しさを改めて考えた。

「信じれば病気が治る」「祈れば運が開ける」といった現世利益を説く宗教は昔から存在する。

しかし、現実には祈っても治らない病気はあるし、熱心な信者でも事業に失敗する。

では、宗教はこうした都合の悪い現実をどう説明するのだろうか。

祈っても効果がなかった場合

現世利益を強調する宗教には、なかなか便利な説明方法がある。

例えば、病気が治らなかった場合。

「本当ならもっと悪化していたが、信仰のおかげでこの程度で済んだ」

あるいは、

「これはあなたに与えられた試練であり、乗り越えることで魂が成長する」

それでもだめなら、

「現世では報われなくても、来世で必ず報われる」

なるほど、これならどんな結果になっても説明できる。

病気が治れば信仰のおかげ。治らなくても信仰のおかげ。悪化しても、そこには何か深い意味がある。

成功すれば教えが正しかった証拠になり、失敗しても教えが間違っていた証拠にはならない。

なかなか無敵の理論である。

もっとも、これは宗教だけの話でもない。投資の予言や怪しげな健康法にも、似たような仕組みは見られる。

一神教には「神のご意志」がある

では、キリスト教やイスラム教のような一神教はどうだろうか。

こちらには「神のご意志」という考え方がある。

人間には理解できなくても、神には神の計画がある。なぜ自分が病気になったのか、なぜ不幸に見舞われたのか。その理由を人間が完全に理解できるとは限らない。

この考え方は、ある意味で非常に強い。

そもそも神が人間の願いを何でも叶えるとは約束していないのだから、願いが叶わなくても、それだけで信仰が間違っていたことにはならない。

ただし、これは苦しんでいる本人からすれば、ずいぶん厳しい話でもある。

「なぜ私だけがこんな目に遭うのか」

「それは神のご意志です」

これで納得できる人もいるだろうが、私ならもう少し説明が欲しくなる。

実際には一神教の内部でも、苦しみの意味について長い議論が続いてきた。神のご意志という一言だけで片づくほど単純な話でもないのだろう。

神道はそもそも少し違う

一方、日本の神道はまた違った性格を持っている。

神道には、キリスト教の聖書のような統一的な教典や、開祖が説いた体系的な教義がない。

自然や八百万の神々への畏敬、祭りや祓いなどの儀礼が大きな位置を占めている。

もちろん、神社では商売繁盛や病気平癒を祈願する。現世利益と無縁というわけではない。

しかし、神道全体が「この教えを信じれば必ず救われる」という理論で成り立っているわけではない。

初詣で健康を祈願したのに風邪をひいたからといって、神道の教義が間違っていると怒り出す人は、あまりいないだろう。

そもそも、そこまで明確な約束を交わした覚えがないのである。

仏教は苦しみそのものを問題にする

仏教も興味深い。

もともとの仏教は、病気を治したり金持ちになったりする方法よりも、人間がなぜ苦しむのか、どうすれば苦しみから解放されるのかを重視していた。

病気にならないことよりも、病気や老いや死を避けられない人間が、それとどう向き合うかという問題である。

この発想なら、祈っても病気が治らないことは、必ずしも教えの失敗にはならない。

ただ、現実に病気で苦しんでいる人に「執着を捨てなさい」と言っても、簡単に納得してもらえるとは思えない。

実際、仏教も長い歴史の中で、病気平癒や厄除けなど、さまざまな現世利益を取り込んできた。

人間は悟りも欲しいが、とりあえず目の前の病気も治してほしいのである。

宗教は何を約束しているのか

こうして見ると、ひと口に宗教と言っても、ずいぶん違う。

現実の願いを叶えることを強調する宗教もあれば、神の意志を受け入れる宗教もある。自然や神々との関係を重視する宗教もあれば、苦しみとの向き合い方を説く宗教もある。

だから「宗教は役に立つのか」という問い自体、少し大雑把なのだろう。

ただ、最初の人生相談に戻ると、私は一つ気になることがある。

信仰によって心が落ち着いたとか、苦しい状況を受け入れられるようになったというなら、それは本人にとって十分な意味がある。

しかし、「信じれば病気が治る」と言われて入信したのに、治らなかった途端に「信仰とは心の成長なのです」と説明が変わるのは、どうにも釈然としない。

病気を治してくれるという話だったのに、いつの間にか病気が治らなくても納得できる人間になることが目標になっている。

宗教の奥深さなのか、それとも単なる後出しジャンケンなのか。

少なくとも、最初の説明とはずいぶん違う話になっている。