「法事ってどこでやるの?」東京在住の私が考える、お寺と現代人の切れていく縁
先日、両親が親戚のおばさんの法事で、地方のお寺まで行ってきた。
法事というのは、亡くなった人を一定の年数ごとに改めて供養する仏教の儀式である。葬式のあとに続く、いわば追加の供養イベントみたいなものだ。
一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌……と続いていく。
地方では今でも「法事だからお寺へ行く」という感覚が普通に残っている地域があるらしい。
その話を聞いて、ふと思った。
東京で暮らしている私たちの世代は、そもそも法事をどこでやるのだろう?
私は東京生まれ東京育ちだが、普段付き合いのあるお寺などない。
近所にお寺はある。しかし、それはコンビニや病院が「近所にある」のと同じで、私と何か関係があるわけではない。
ましてや「三回忌なので、いつものお寺にお願いしよう」となるような「いつものお寺」が存在しない。
そう考えていると、さらに根本的な疑問が出てくる。
そもそも法事って、やる必要があるのだろうか。
昔はお寺と自動的につながっていた
江戸時代の日本では寺請制度によって、人々は基本的にどこかのお寺と結びつけられていた。
寺は宗教施設であると同時に、人々の身分や所属を証明する行政的な役割まで担っていた。
明治以降、その機能は切り離されたが、「人が亡くなればお寺に頼む」「墓を建てる」「何年かごとに法事をする」という習慣は残った。
ところが今、その前提自体が崩れている。
墓も戒名も法事も「本当に必要?」
先祖代々の墓を維持せず、納骨堂、樹木葬、散骨などを選ぶ人も増えた。「墓じまい」という言葉も珍しくない。
そうなると当然、
「戒名は必要なのか」
「毎回お坊さんを呼ぶ必要があるのか」
「十三回忌まで本当に続けるのか」
という話にもなる。
特にお金が絡めば現実的になる。
戒名や葬儀、法事にまとまった金額が必要になると、「宗教的に必要だから払っているのか、昔からそうしているから払っているだけなのか」と考える人が出てくる。
妻の実家でも、義理の父親が亡くなったあと三回忌までは法事をした。
そこで、
「もうこれで終わりにします」
とお寺に伝えた。
すると、お寺の方が絶句したらしい。
こちらとしては「三回忌までやったのだから十分だろう」なのだが、お寺側からすれば、
「え、ここで終わるんですか?」
だったのだろう。
この温度差はかなり大きい。
お寺にも事情はある
もちろん、お寺もタダでは維持できない。
本堂や仏像、墓地、境内を維持するには金がかかる。地方では人口が減り、檀家も減っている。しかし建物は小さくならない。
葬儀、戒名、法事などから一定の収入を得なければ維持できないのも当然だろう。
問題は、その事情が現代人にとって「だから私が払います」という理由にはならなくなったことだ。
昔なら、
「そういうものだから」
で済んだ。
今は、
「なぜ必要なんですか?」
と聞かれる。
伝統にとって、この質問はかなり厳しい。
離れる以前に、最初からつながっていない
よく「若者の寺離れ」「日本人の宗教離れ」と言われる。
しかし東京で暮らしていると、少し違う。
離れる以前に、最初から接点がないのである。
普段お寺へ行かない。住職を知らない。自分の家がどこの檀家なのかも知らない。
それなのに家族が亡くなった瞬間だけ、
「お寺はどうしますか?」
「戒名はどうしますか?」
「法事はどうしますか?」
と突然、お寺との関係が始まる。
お寺から見れば何百年も続いてきた大切な儀式でも、こちらから見れば人生で数回しか接点のないサービスになってしまった。
そして一度「サービス」として見えてしまうと、人は当然、値段と必要性を考える。
法事が「解約可能」になった
両親の話を聞いて私が最初に思った、
「法事って、どこでやるの?」
昔なら、そんな疑問自体がなかったはずだ。
家の寺があり、墓があり、住職がいる。亡くなればそこで葬式をして、その後もそこで法事をする。
ところが今は、自分で選ばなければならない。
どこでやるのか。
いくら払うのか。
そもそもやるのか。
選択肢になれば、当然「やめる」という選択肢も生まれる。
妻の実家は三回忌で、
「もうこれで終わりにします」
と伝えた。
考えてみれば、なかなか現代的である。
何百年も続いてきた宗教的な習慣なのに、こちらの感覚としては、
「三回忌まで利用しましたが、今後は結構です」
になっている。
お寺が絶句したのも無理はない。
どうやら法事にも、解約という概念が生まれてしまったらしい。