なぜ地元の武将が悪役になると市長まで怒るのか――日本人の「良いお上」への期待

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、地元ゆかりの武将の描かれ方を巡って、市長が不満を表明したというニュースを見た。

これを見て、最初は少し笑ってしまった。

何百年前の武将である。

本人はとっくに死んでいるし、市長の親戚というわけでもない。それなのにドラマで悪く描かれると、自治体のトップまで反応する。

しかし考えてみると、日本ではこういう話が時々ある。

過去の大河ドラマでも、地元ゆかりの人物の描き方や地域の見せ方に自治体側から注文がついたことがある。

なぜ数百年前の領主や武将が、今でもこれほど「地元の人」として扱われるのだろう。

戦国ドラマには悪役が必要になる

まず制作側の事情は分かる。

戦国時代など、実際には誰もが自分の都合で動いている。

昨日の味方が今日の敵になり、同盟を結んだと思えば裏切り、都合が悪くなればまた手を組む。

史実をそのまま並べれば、

「結局、誰がいい人なんだ?」

という話になってしまう。

しかしドラマには主人公がいる。

主人公がいれば、その行く手を阻む人間も必要になる。

すると、歴史上の誰かがヴィラン、つまり悪役や引き立て役を担当することになる。

豊臣秀吉を主人公側から描けば、その敵対勢力は悪く見える。

徳川家康を主人公にすれば、また景色が変わる。

明智光秀を主人公にすれば、織田信長の見え方まで変わる。

歴史ドラマなのだから仕方がない。

ところが、その「今回の悪役」に選ばれた人物が、ある地域では何百年も愛されてきた英雄だったりする。

そこで揉める。

なぜ昔の殿様が「地元のヒーロー」なのか

日本各地を旅行すると、昔の領主や武将が今でもかなり大切にされていることに気づく。

銅像がある。

祭りがある。

神社に祀られていることもある。

地元の学校で郷土史として習う。

「この殿様が川を整備した」 「この武将が城下町を作った」 「この人が産業を育てた」

という話が何百年も語り継がれている。

つまり、単なる昔の権力者ではない。

現在の街を作った創業者のような存在になっている。

企業で言えば、何百年前の創業社長の銅像が今でも本社前に立っているようなものだ。

だから全国放送の大河ドラマで、

「実はこいつは卑怯で無能な悪党でした」

とやられると、地元としては面白くない。

歴史上の人物への批判というより、自分たちの街の歴史まで馬鹿にされたように感じる。

自治体が観光資源としてその人物を売り出していれば、なおさらである。

日本の時代劇には「良い権力者」が多い

そこで思い出したのが、日本の昔の時代劇である。

『暴れん坊将軍』。

主人公は徳川吉宗。将軍である。

『水戸黄門』。

主人公は徳川光圀。徳川御三家の副将軍として描かれる。

『大岡越前』。

町奉行である。

『遠山の金さん』。

これも町奉行。

改めて並べると、ものすごい。

全員、権力側である。

民衆が立ち上がって権力者を倒す話ではない。

むしろ逆だ。

庶民が悪徳商人や悪代官に苦しめられている。

そこへ、もっと上の権力者が現れる。

「成敗!」

となる。

そして正しい秩序が回復する。

悪いのは権力そのものではない。

権力を間違って使っている下っ端が悪いのであって、一番上には正しくて立派な人がいる。

これが日本の時代劇で何十年も愛されてきた王道パターンだった。

「お上を倒す」より「良いお上に正してもらう」

ここには、日本人の権力に対する一つの理想像が見える気がする。

権力者は民を苦しめる存在ではなく、本来は民を守る存在であってほしい。

悪代官がいたら、さらに上の偉い人が叱ってほしい。

政治が乱れたら、徳のある人物に正してほしい。

中国から伝わった儒教には「徳治」という考え方がある。

支配者は単に力が強いから支配するのではなく、徳を備え、民を正しく治めるべきだという思想である。

日本の時代劇がそのまま儒教思想から生まれたという単純な話ではないが、「良い権力者が悪い権力者を正す」という物語との相性は非常にいい。

『水戸黄門』で庶民自身が武装蜂起して代官所を占拠してしまったら、もはや別のドラマである。

庶民は困っている。

悪人がいる。

そこへ正しいお上が現れて解決する。

視聴者も安心する。

つまり日本の時代劇では、

「権力から自由になる」というより、「正しい権力に守ってもらう」ことがハッピーエンドになりやすい。

これはなかなか面白い特徴だと思う。

だから「殿様は立派だった」が重要になる

そう考えると、地元の武将が悪く描かれて怒るという現象も少し理解できる。

その人物は単なる歴史上の権力者ではない。

「この土地を作った人」 「領民を守った人」 「今の町につながる基礎を作った人」

として記憶されている。

いわば理想的な「お上」の地域版である。

そこへ全国放送のNHKがやってきて、

「今回、この人には悪役をやってもらいます」

となれば、地元としては穏やかではない。

しかも大河ドラマは観光への影響も大きい。

ゆかりの城や寺、資料館に観光客が来る。自治体も大河ドラマ館を作ったり、関連イベントを開催したりする。

歴史上の人物であると同時に、現代では立派な観光資源でもある。

市長が反応するのも、単なる歴史オタクの感情論とは言い切れない。

歴史上の人物は、死んでも「地元民」であり続ける

このニュースを見て面白いと思ったのは、市長がドラマに文句を言ったことそのものではない。

何百年も前に死んだ武将が、いまだに地域社会の一員として扱われていることだ。

地元の人からすれば、

「昔この辺にいた人」

ではない。

「うちの殿様」なのである。

だから他所から悪く言われれば面白くない。

歴史上の人物なのに、妙に距離が近い。

考えてみれば、それだけ長い間、地域の歴史が連続しているということでもある。

そして、その感覚の奥には、日本人が昔から物語の中で繰り返してきた「良いお上」への期待も重なっているように見える。

このあたりを深堀りすれば、日本の天皇制がなぜ長く続いてきたか、未だに支持されてるかまで話せそうである。それだけで1本ブログになるので別の機会に。

ともあれ、悪代官は成敗されるべきだ。

しかし、最後に出てくる殿様は立派であってほしい。

何百年経って大河ドラマになっても、その期待はなかなか消えない。

どうやら日本では、殿様は死んでからも領民への責任が終わらないらしい。