日本人はなぜ「テキトーに生きるフィリピン人」に惹かれるのか?――嫌悪と羨望の裏返し

フィリピン在住の日本人YouTuberの動画を、ときどき見る。

現地の人々のルーズさや計画性のなさを面白おかしく紹介する内容だ。

約束の時間に来ない。おごってもらっても感謝しない。お金が入ればすぐに使い果たす。明日の生活費がなくても、今日を楽しむことを優先する。

こうした話は日本人が抱くフィリピン人のイメージと重なり、人気のコンテンツになっている。

見ていると、つい思ってしまう。

「そんなに嫌なら、日本に帰ればいいのに」

ところが、そう思いながら自分も動画を見ている。

なぜだろうか。

単にフィリピン人を見下して優越感に浸っているだけなのか。

私は、もう一つ別の感情が隠れているように思う。

羨ましいのである。

日本人は「ちゃんと生きる」ことに疲れている

日本では、とにかく何事もきちんとすることが求められる。

時間を守る。約束を守る。周囲に迷惑をかけない。仕事では段取りを考え、将来に備えて貯金する。

どれも立派なことだ。

そのおかげで日本社会は秩序正しく、便利で、安全に暮らせる。

しかし、その裏側には「ちゃんとしていなければならない」という強烈なプレッシャーがある。

仕事でミスをすれば責められる。時間に遅れれば謝罪する。老後の資金が足りないと聞けば、今から節約しなければと焦る。

常に未来のために現在を管理しているようなものだ。

そんな日本人から見ると、動画に登場するフィリピン人の生活は、まるで別世界である。

お金が入ったら使う。楽しいことがあれば楽しむ。明日のことは明日考える。

日本人の常識では、あまり褒められた生き方ではない。

だが、どこか羨ましくもある。

自分が必死に守っているルールを、彼らは平然と飛び越えていくからだ。

日本人は昔から「無責任な人間」が大好きだった

考えてみれば、日本には昔から「テキトーな人間」を笑いの対象として愛する文化がある。

代表格が植木等だ。

「スーダラ節」の「わかっちゃいるけどやめられねぇ」というフレーズに象徴されるように、無責任で調子のいいサラリーマンを演じ、高度経済成長期の日本人を熱狂させた。

当時の日本人は猛烈に働いていた。

だからこそ、仕事も責任も適当にかわしながら、陽気に生きる植木等の姿が痛快だったのだろう。

もう一人は高田純次だ。

「適当男」として、いい加減な発言を繰り返し、その場のノリで笑いを取る。

ところが、植木等も高田純次も、実際には高いプロ意識を持つ芸能人である。

つまり、彼らの「テキトー」は、真面目な人間が高度な技術で演じる芸なのだ。

ここが面白い。

日本人は本当に無責任な人間が身近にいると怒るくせに、テレビの中の無責任な人間には大喜びする。

自分の仕事仲間には絶対にいてほしくないが、画面の中にはいてほしい。

見下しているのか、羨ましいのか

フィリピン人のルーズさを紹介する動画にも、似た構造があるように思う。

視聴者は「なんていい加減なんだ」と笑う。

その笑いには、日本人としての優越感もあるだろう。

自分たちは時間を守る。計画的に生活する。社会のルールを尊重する。

だから日本は豊かな国になったのだ、と。

しかし、その一方で、別の感情も湧いてくる。

「こんなふうに生きられたら、どれだけ楽だろう」

毎日将来を心配し、仕事の責任を背負い、老後の資金まで計算している日本人からすれば、明日の心配をせずに笑っている人間は、ある意味で究極の自由人である。

自分が実際にその生活を送りたいかと聞かれれば、話は別だ。

貯金がなくなれば困るし、約束を破られれば腹が立つ。

結局、我々は日本社会の秩序や快適さを手放したくない。

しかし、その秩序を維持するために自分が払っている代償からは、逃げ出したいのである。

他人の「テキトー」を娯楽として消費する

だからこそ、こうした動画は面白い。

自分がルーズに生きれば、生活が破綻するかもしれない。周囲からも非難される。

しかし、他人がルーズに生きている姿を見るだけなら、何の責任も負わなくて済む。

笑いながら「しょうがない連中だな」と言っていればいい。

そして心のどこかで、自分にはできない生き方を疑似体験している。

これは植木等や高田純次を見て笑う心理と、それほど違わないのではないか。

真面目な社会に生きる人間ほど、不真面目な人間に惹かれる。

ただし、身近にいては困る。

遠くから眺める分には最高なのである。

結局、無責任な人間は画面の中に限る

考えてみれば、実に都合のいい話である。

日本人は、フィリピン人の自由奔放な生き方を笑いながら、どこかで羨ましがっている。

しかし、そんな人間が自分の部下になったり、取引先になったりしたら、たちまち激怒するだろう。

無責任な人間には憧れる。だが、その無責任の後始末だけは絶対にしたくない。

結局、日本人が求めているのは、自分には一切迷惑をかけない都合のいい無責任人間なのである。