「多様性」を叫ぶ学校ほど、なぜ髪型にはうるさいのか

先日、電車の中で強い縮毛の女子高校生を見かけた。地肌が見えてしまうほどで気の毒なレベルだ。

もちろん本人が自分の髪をどう思っているのかは分からない。ただ、自分が高校生の頃に同じ髪質だったら、かなり気にしただろうなとは思った。

思春期というのは、ただでさえ容姿が気になる。

大人になれば「そんなもの個性だ」で済ませられることも、中学生や高校生には人生の一大事だったりする。

知人の家庭にも、強い縮毛の子どもが二人いる。父親は少し癖毛がある程度なのだが、子どもたちは二人ともかなり強く出た。

男の子なら、短く刈るという選択肢もある。しかし女の子の場合、髪型そのものを楽しみたい年齢でもある。毎朝かなりの時間をかけて髪を整えている子もいるだろう。

そこで気になるのが学校だ。

最近はどこの学校も「多様性」「個性の尊重」「自分らしさ」といった言葉をよく使う。

ところが髪の話になると、突然ルールが大昔に戻る。

特に伝統校、お嬢様学校、私立学校ほどその傾向がある。

口では自由や多様性、自主性を謳いながらも染髪禁止。パーマ禁止。ウィッグも禁止。

生まれつき茶色い髪や癖毛について「地毛証明書」を求める学校が問題になったこともある。

考えてみれば妙な話である。

生まれつきの髪質で悩んでいる生徒に対して、

「あなたの個性を尊重します。だから、その髪のまま学校に来てください」

というのは、本当に多様性なのだろうか。

本人がその髪を気に入っているなら、そのままでいい。

しかし本人が強いコンプレックスを持っていて、縮毛矯正をしたい、ウィッグを使いたい、髪型を工夫して目立たなくしたいと思っているなら、それも本人の選択ではないのか。

生まれつきの特徴を受け入れる自由と、生まれつきの特徴を変える自由は、本来セットのはずだ。

ところが学校の校則では、前者だけが「自然」「個性」として認められ、後者は「加工」「おしゃれ」として禁止されることがある。

ここに私は違和感がある。

そもそもコンプレックスというものは、他人が「気にする必要ないよ」と言えば消えるほど便利にはできていない。

本人が毎朝鏡を見るたびに嫌だと思っているなら、「それもあなたの個性です」という言葉は救いになるとは限らない。

むしろ、

「個性なんだから、そのまま我慢してください」

と言っているだけになることもある。

もちろん学校には一定のルールが必要だ。しかし、髪を金髪に染めて目立ちたいという話と、生まれつきの髪質に悩んで縮毛矯正やウィッグを使いたいという話まで、同じ「髪型の加工」という箱に放り込む必要はない。

技術的にも、今は昔より選択肢が増えている。

縮毛矯正もある。ウィッグもある。ヘアケア用品もある。

本人がそれによって少しでも自信を持って学校へ行けるなら、使えばいい。

学校がやるべきなのは、「生まれつきだから、そのままでいなさい」と生徒に我慢を要求することではなく、本人がどうしたいのかを聞き、選択肢を認めることではないか。

「多様性」という言葉は便利である。

制服のパンフレットに書けば先進的に見えるし、学校説明会でも受けがいい。

だが本当に多様性を認めるなら、

「そのままの自分でいる自由」だけでなく、「そのままではいたくない自由」も認めなければおかしい。

そこまで認めて初めて個性の尊重だろう。

「あなたらしく生きてください。ただし髪型は校則どおりに」

それでは多様性というより、多様性にも学校指定の髪型があるだけである。