日本人がノーベル賞を取るたびに、少し不安になる理由
日本人がノーベル化学賞を受賞した。
もちろん、おめでたい。
数年に一度、日本人研究者の受賞が報じられると、「日本の科学技術力はまだまだ健在だ」といった話になる。
だが、私は最近、少し違うことを考える。
これ、あと何回見られるのだろう。
ノーベル賞という賞の性質を考えると、今も日本人受賞者が出ていることだけを見て安心する方が怖い。
ノーベル賞は「昔の成績表」である
科学分野のノーベル賞で評価される研究は、何十年も前に行われたものが珍しくない。
つまり、2020年代に日本人が受賞しても、それが現在の日本の研究環境の成果とは限らない。
表彰されているのは、研究者が若かった頃の日本だ。
研究費とポストがあり、今より長期的なテーマに取り組めた時代。
「何の役に立つんですか」
「3年後に成果は出ますか」
「KPIは何ですか」
そんな質問に毎回答えなくても、面白そうだから研究してみる余白があった。
役に立つか分からない。成功するかも分からない。
だから基礎研究なのである。
ところが成果主義を突き詰めれば、「短期間で成果を説明できる研究」が有利になる。
合理的ではある。
そして、ノーベル賞級の研究を生み出すには、かなり相性の悪い合理性でもある。
種を撒かなければ、いつか収穫は終わる
現在の日本では、研究費の獲得競争、任期付きポスト、書類仕事など、若手研究者が腰を据えて研究するには厳しい条件が積み重なっている。
それでも日本人がノーベル賞を取ると、
「やはり日本の科学は強い」
と安心する。
農業にたとえれば妙な話だ。
20年前に植えた果樹から立派な果物が採れた。
皆で喜ぶ。
ところが、新しい苗木は以前ほど植えていない。若い農家も減っている。肥料代も削っている。
それでも昔植えた木から果物が採れている間は、
「ほら、まだ大丈夫だ」
と言っている。
研究力の衰退は、衰退した瞬間には見えない。
20年、30年遅れて請求書が届く。
中国は逆方向に走っている
その一方で、中国は研究開発に巨大な資金を投入し、研究設備を整え、海外の研究者を呼び戻している。自然科学分野の有力論文でも存在感はすでに大きい。
研究者の母数を増やし、金と設備を投入し、大量の研究を走らせれば、世界的成果が生まれる確率も上がる。
だから私は、30年後にはかなり違う景色になっていると思う。
中国人研究者が毎年のようにノーベル賞を取り、日本人研究者は5年、10年に一度。
そんな時代が来ても驚かない。
科学の世界では、今日の投資の差が何十年も遅れて結果になるからだ。
祝杯の意味が変わる日
だから日本人のノーベル賞受賞は、素直に祝えばいい。
ただ、その祝杯を飲みながら一度くらい考えてもいい。
我々が祝っているのは、日本科学の現在なのか。
それとも、まだ口座に残っていた過去の日本の遺産なのか。
怖いのは、その残高がゼロになったときだ。
その頃になって「最近、日本人がノーベル賞を取らなくなった」と騒いでも遅い。
30年前に注文し忘れたノーベル賞を、翌朝Amazonで届けてもらうことはできないのである。