高IQ芸人が売れず、低い方が天下を獲る謎――「人間の能力を1つの数字で測る」限界とは
かなり前、テレビのバラエティ番組で、人気お笑いコンビのIQを測る企画を見た。
片方はテレビで頻繁に見かける売れっ子。司会もトークもこなし、突然話を振られても瞬時に笑いに変える。
もう片方は、失礼ながら、相方と一緒にいるとき以外はあまり見かけない。
ところがIQの結果は見事に逆だった。
売れっ子が95。相方が125。
テレビ番組の企画なので、正式な知能検査と同列には扱えない。それでも、この逆転現象は面白い。
IQ125がIQ95に、芸能界という実社会で完敗しているのである。
いったい「頭がいい」とは何なのだろう。
IQ125ができないこと
人気芸人の仕事を見ていると、とても頭の悪い人間にできるとは思えない。
共演者が何を言うか分からない。突然話を振られれば、数秒で意図を理解し、相手との関係性や場の空気を読み、テレビで許される範囲も判断する。
そして最後に笑いを取る。
これをほぼリアルタイムでやっている。
普通の会社員が会議で突然意見を求められ、「えーっと……」と固まっている間に、人気芸人なら何発か笑いを取っている。
だったら、最初に疑うべきはこれだ。
IQテストは、本当に人間の「頭の良さ」をすべて測っているのか?
IQが測っているのは「IQテストで測れる能力」である
IQ150と聞けば、「ものすごく頭のいい人」という人物像が勝手に出来上がる。
しかし知能検査が測るのは、人間の能力のすべてではない。
言語理解、推理能力、ワーキングメモリ、処理速度など、検査によって定義された認知能力である。
測定項目に入っていない能力は、どれだけ優れていても点数にならない。
100メートル走のタイムを測っても、泳ぎの速さは分からない。ベンチプレスを測っても、野球の上手さは分からない。
ところがIQになると、なぜか「人間の知能そのものを測った数字」のように扱われる。
人間は「測れるもの」を重要だと思い始める
ここからが、もっと面白い。
人間は重要なものを測るだけでなく、測れるものを重要だと思い始める。
学校なら偏差値。会社なら売上。SNSならフォロワー数。そして知能ならIQ。
数字になれば比較できる。比較できれば順位をつけられる。
IQ130と100なら130の勝ち。偏差値70と50なら70の勝ち。
人間はこういう単純な序列が大好きである。
問題は、数字にできなかった能力が、存在しないかのように扱われることだ。
IQ125だが会話が苦手な人と、IQ95だが100人の空気を瞬時に読んで爆笑を取れる人。
それでも数字だけ並べれば、125の人が「頭がいい」。
ずいぶん雑な話である。
問題はIQではなく、数字を信じすぎる人間
もちろん、IQテストには意味がある。
特定の認知能力を測定し、知的障害の評価や必要な教育・支援を考える際にも役立つ。
問題は道具ではない。
道具の測定範囲を勝手に拡張する人間のほうである。
体温計は便利だ。しかし36.5度と表示されたからといって、「あなたの健康状態は100点です」とは言えない。
測ったのは体温だけだからだ。
IQも同じである。
ところが数字が一つ出ると、人間はそこから人格、才能、仕事能力、将来性まで読み取ろうとする。
測定器より、人間のほうが欲張りなのである。
もしテスト結果と現実の活躍に大きな差があるなら、考えるべきは、その数字が何を測り、何を測っていないかだ。
一本の数字で人間を理解できたと思ってしまう。皮肉にも、それこそが最も知性を疑わせる行為なのである。