医者になれなかったから働かない?──そのプライドの負債を、最後は誰が養うのか
先日、ニートが高齢になってきてるニュース特集を見た。
その中で医学部を目指していたものの、夢が叶わず、今も働かずに親の世話になっているケースを目にした。
理由は、医者になれなかったから。
なかなか壮大な話である。医者になれないのなら、ほかの仕事などしたくない。理想の人生を手に入れられなかったのだから、働くこと自体を放棄するというわけだ。
しかし、世の中には、やりたくない仕事をして生活費を稼いでいる人間が山ほどいる。
私自身、長年IT業界で働いてきたが、毎日が楽しくて仕方がないなどと思ったことはない。
そもそも、仕事とはそういうものではないのか。
給料とは、ある意味で我慢料である
世の中には「好きなことを仕事にしよう」「仕事を通じて自己実現しよう」といった美しい言葉が溢れている。
それが実現できれば結構な話だ。しかし、現実には誰かがやりたくないことや、自分ではできないことを引き受けるからこそ、お金が支払われる。
もちろん、仕事にやりがいを感じる瞬間はある。しかし、給料には少なからず我慢料という側面がある。
嫌な上司、面倒な顧客、理不尽な要求。そんなものと付き合いながら、多くの人間は生活費を稼いでいる。
医者になれなかったことは残念だろう。努力もしたのだろう。しかし、それと働かなくてよいことに、いったい何の関係があるのか。
世の中には、希望する職業に就けなかった人など掃いて捨てるほどいる。
彼らが全員、理想の仕事に就けなかったからと労働を放棄したら、社会はどうなるのだろう。
プライドでは飯は食えない
医学部を目指すほど勉強してきた人間にとって、一般企業への就職やアルバイトは屈辱なのかもしれない。
しかし、医者になれなかった自分を認めたくないからといって、何もしなければ現実が変わるわけではない。
むしろ、年齢を重ねるほど社会復帰のハードルは上がっていく。
ここで不思議なのは、アルバイトをするプライドは許さないのに、親から生活費をもらうプライドは許すという点だ。
他人に頭を下げて給料をもらうのは嫌だが、親に養ってもらうことには抵抗がない。
ずいぶん都合のよいプライドである。
親が死んだらどうするのか
もっとも、親が納得して養っているのであれば、基本的には家庭内の問題だ。
親の財産が十分にあり、本人が一生働かなくても生活できるなら、それはそれで結構な話である。
問題は、そうでなかった場合だ。
親はいつまでも生きているわけではない。親が亡くなり、収入も財産もなくなったとき、いったい誰が生活費を負担するのか。
そのとき初めて就職しようとしても、長年の空白期間を埋めるのは容易ではない。
最終的には生活保護に頼る可能性も出てくる。
生活保護は社会に必要な制度だ。病気や障害、失業などで生活に困窮した人を支える仕組みがなければ、誰も安心して暮らせない。
しかし、働けるのに理想の職業でなければ嫌だと何十年も働かず、最後は税金で生活するという話になれば、私は納得できない。
あなたの夢の後始末を、なぜ他人が負担するのか
とまあ、今回のニートには1%も同情しなかったのだが、こういう人にも生活保護が支給され得るというのは、制度そのものについて考えるきっかけにもなる。
これは外国人への生活保護にも通じる話だ。日本に来て間もない外国人や、長年働かずに暮らしてきた日本人など、過去にほとんど納税してこなかった人に対して、どこまで公的な福祉を提供すべきなのか。
生活保護は、過去の納税額に応じて受給資格が決まる制度ではない。しかし、制度としてそれでよいのかという議論は、もう少しあってもよいと思う。
とはいえ、支援を打ち切れば解決するほど話は簡単ではない。
生活に困った人々を放置した結果、街にホームレスがあふれ、治安や衛生環境が悪化するのも困る。結局、その社会的コストを負担するのも我々である。
働かない人間を税金で養うのは納得できない。しかし、養わなければ別の形で社会がツケを払うことになる。
どうやら生活保護という制度は、困っている人を救うためではなく、我々自身が困らないために存在しているらしい。