禅とマインドフルネス、そして葬式仏教のリアル――観光のつもりが深く考えてしまった話

昨日、ふらっと禅寺に行ってきた。

別に悟りを開こうと思ったわけではない。庭がきれいだと有名なので純粋に観光のつもりだった。

ところが境内を歩きながら、禅というものについて考えているうちに、だんだん別のことが気になってきた。

よく考えると、禅というのは仏教の中でもかなり変わった存在である。

「みんなを救います」とは少し違う

宗教というと、多くの場合「人々を救う」というイメージがある。

日本の仏教でも、阿弥陀仏を信じて極楽往生を願う浄土系の教えなどは非常に分かりやすい。難しい修行のできない普通の人でも救われるという思想だから、広く庶民に受け入れられたのも理解できる。

一方、禅はかなりストイックである。

基本的には、自分で坐禅をし、自分自身と向き合い、悟りを目指す。

もちろん禅宗にも人々を救済する思想はあるので、「禅は自分のことしか考えない宗教」という意味ではない。ただ、修行の中心にあるのが個人の実践であることは確かだ。

歴史的にも、禅は武士階級との結びつきが強かった。

生死と隣り合わせの武士にとって、自分の心を整え、生死への執着から離れようとする禅の思想には相性の良い部分があったのだろう。

そして坐禅そのものも、ある意味では恐ろしくシンプルである。

曹洞宗なら「只管打坐」、つまり余計な目的を求めず、ひたすら坐ることを重視する。

何か秘密の呪文を覚えるわけでもない。

高価な道具を買うわけでもない。

ただ坐る。

シンプルすぎて、逆に難しい。

ところが「マインドフルネス」になったら世界に広がった

そして面白いのが現代である。

禅や仏教の瞑想と関係の深い実践が、宗教的な要素を薄めた「マインドフルネス」という形で世界中に広がった。

企業研修にも使われる。

アスリートもやる。

経営者もやる。

スマートフォンには瞑想アプリまである。

「禅寺で悟りを目指しましょう」

と言われたら身構える人でも、

「一日10分のマインドフルネスでストレスを軽減しましょう」

と言われると、急に試してみようという気になる。

中身には重なる部分があるのに、パッケージを変えた瞬間に市場が巨大になった。

宗教という看板を外したことで、むしろ世界へ広がったわけである。

ここで少し気になった。

昔から禅を修行してきた僧侶たちは、これをどう見ているのだろう。

「そんなものは禅ではない」

と思う人もいるだろう。

逆に、

「入口は何でもいい。坐って自分の心を見る人が増えるなら結構なことだ」

と考える人もいるかもしれない。

当然、僧侶によって考え方は違うだろう。

ただ、宗教としては少し皮肉な現象である。

宗教色を薄めたら、世界的に大ヒットした。

そして寺にも現実の生活がある

もっとも、日本の禅寺を見ていると、話はさらに現実的になる。

どれだけ悟りを追求していても、寺の建物は勝手には修繕されない。

屋根も傷む。

庭も手入れしなければならない。

電気代もかかる。

僧侶だって霞を食べて生きているわけではない。

当然、寺を維持するためにはお金が必要になる。

そこで日本の仏教は長い歴史の中で、葬儀や法事、墓地、檀家制度などと深く結びついてきた。

いわゆる「葬式仏教」である。

この言葉は批判的に使われることも多い。

「本来は悟りを目指す宗教なのに、葬式ばかりやっているではないか」

というわけだ。

確かに、純粋な宗教論として見ればそういう批判も分かる。

しかし現実問題として、寺を何百年も維持しようと思えば経済基盤が必要になる。

修行だけしていれば建物が修復されるわけではない。

そう考えると、葬式仏教も単なる「堕落」の一言では片付けられない。

信仰には理想があるが、寺には固定費がある。

この二つを何百年も両立させてきた結果が、現在の日本仏教なのだろう。

禅は三つの顔を持つようになった

こうして考えると、現代の禅には少なくとも三つの顔がある。

一つは、悟りを目指して坐禅する、本来の宗教・修行としての禅。

もう一つは、葬儀や法事を通じて地域社会と結びつき、寺を維持していく日本の仏教としての禅。

そしてもう一つが、宗教色を薄めて世界へ輸出されたマインドフルネスとしての禅である。

「悟り」

「葬式」

「メンタルケア」

同じ源流から、ずいぶん違うものが生まれた。

だが考えてみれば、1000年近く続いている宗教が社会の変化に合わせて姿を変えるのは、むしろ当然なのかもしれない。

変化できなければ、とっくに消えている。

マインドフルネスも葬式仏教も、見方を変えれば禅や仏教が社会の中で生き残るために獲得してきた別の顔とも言える。

禅寺で一番「無」から遠かったのは私だった

そんなことを考えながら寺を出た。

もともとは観光のつもりだったのに、気がつけば頭の中では、

「宗教の大衆化」

「マインドフルネスへのリブランディング」

「寺院経営の収益構造」

などを延々と考えていた。

禅寺まで来て、宗教のビジネスモデルを分析している。

我ながら、ずいぶん煩悩の多い観光客である。

禅では余計な思考にとらわれず、ただ坐ることが大切だという。

次に行ったときは、私も坐禅を体験してみようと思う。

もっとも、

「この坐禅体験、一人いくらで、寺の1日の売上の何%くらいになるんだろう」

などと考え始めたら、たぶん悟りはまだ相当遠い。