令和版「貧乏人は麦を食え」――米騒動で本当に失われたものは?
ここ2年ほど、米が高い。
一時的な品薄ならまだ分かる。「新米が出れば落ち着くだろう」「供給が戻れば値段も下がるだろう」と思っていた。
ところが、なかなか下がらない。
最近、ようやく価格が下がってきたかと思えば、今度は生産者への影響が問題になり、政府は備蓄米の買い入れなどで米価を支える方向へ動く。
消費者としては、かなり冷めてきた。
ああ、米はもう安くするつもりがないのだな。
それならこちらにも考えがある。
食べなければいい。
おにぎり200円を見て、パン売り場へ行く
最近、コンビニのおにぎりを見ると普通に200円近い。具材によってはそれ以上である。
隣を見ると菓子パンが130円くらいから並んでいる。スーパーへ行けばパスタ、うどん、焼きそばもある。
かつて「安く腹いっぱい食べられるもの」の代表だった米が、価格を気にして選ぶ食品になってしまった。
だったら今日はパンでいい。明日はパスタでいい。うどんでもいい。
これは反農業運動でも何でもない。
高いから買わない。
ごく普通の消費行動である。
「日本の農家を守ろう」と言われても
これまで米には、単なる商品ではない特別な感情があった。
日本の主食。日本の農業。水田が守る日本の原風景。
農家が大変なのだから、多少高くても国産米を買って支えよう。そういう話にも説得力があった。
ところが今回の米騒動では、流通段階での在庫や価格形成をめぐってさまざまな疑念が生まれた。
真偽は別として流通業者の不当な利益追求があったのではないかと疑われている。
なのに、ようやく価格が下がり始めれば、今度は税金を使って維持しようという話になる。
消費者からすると、
高くても我慢して買ってください。安くするつもりはありません。
と言われているように見える。
農家にも生活がある。卸にも小売にも利益が必要だ。
それは分かる。
しかし、それなら消費者にも生活がある。
ビジネスなら、こちらもビジネスライクに考える
農家や卸が利益を求めること自体は当然である。
「この価格でなければ我々の事業は成立しません」
と経済合理性で話すのであれば、消費者も経済合理性で答えればいい。
「分かりました。では別のものを食べます」
これで終わりだ。
日本文化だから。農家がかわいそうだから。水田を守らなければならないから。
そんな理由で、家計に余裕のない人まで高い米を買い続ける義務はない。
売る側がビジネスなら、買う側だけに愛国心や郷愁を要求するのはフェアではない。
怖いのは「米を食べない生活」に慣れること
米業界にとって本当に怖いのは、消費者が米のない生活に慣れることだと思う。
「朝はパンでいい」
「昼はパスタでいい」
「夜もうどんでいい」
一度それが普通になれば、習慣は変わる。
寿司や牛丼を食べたい日は外で食べればいい。家庭では毎日米を炊かなくても生活は成立する。
そして一度代替品に慣れれば、あとから米が安くなっても完全には戻らない。
企業が値上げで本当に恐れるべきなのもこれだろう。
客が怒ることではない。
客が代替品を見つけて、怒ることすらやめることだ。
令和版「貧乏人は麦を食え」
戦後、池田勇人蔵相の発言として有名になった言葉がある。
「貧乏人は麦を食え」
実際の発言は、この有名な表現そのものとは少し違うのだが、政治家の暴言として長く語り継がれてきた。
ところが令和になって、この言葉が妙に現実味を帯びてきた。
米が高い?
農家を守るためには仕方ありません。
価格が下がりそう?
それでは生産者が困るので対策します。
では家計が苦しい人は何を食べればいいのか。
パンがある。うどんがある。パスタもある。
なるほど。
政府はさすがに、
「貧乏人は麦を食え」
とは言わない。
そんなことを言えば大炎上する。
だから言葉にはしない。
米の値段だけ高く維持しておけば、国民が自分で麦を食べ始める。
どうやら令和の政治は、昭和よりずっと洗練されているようだ。