昔の「ウザい教師」は必要悪だったのか――何もしないことが「尊重」になる怖さ

最近、ネット掲示板で高校教師の愚痴を読んだ。

ネットの書き込みなので真偽は分からないが、妙に考えさせられる話だった。

今は生徒を強く指導するのが難しい。厳しく言えば親からクレームが来る。進路について現実的な話をすれば「価値観の押し付け」と言われる。

その教師が担当していた生徒の一人は、YouTuberになると言って勉強をほとんどしなかった。

教師も最初は説得したが、本人にその気がない。そこで教頭に報告し、本人の意思も確認したうえで、それ以上の介入をやめた。

進路を決める時期になって、何も準備していないことを知った親は驚いた。

しかし教師は、

「本人に進学する意思はありません。希望はYouTuberです。本人にも何度も確認しています」

と説明した。

親は学校にクレームを上げることなく、その事実を受け入れた。

結局、その生徒は受験もうまくいかず、就職も決まらなかったそうだ。

読んでいて思った。

これ、教師側からすれば完璧な対応ではないか。

上司に報告する。本人の意思を確認する。無理強いしない。

組織のリスク管理としては100点に近い。

そして生徒の人生としては、かなり悲惨である。

「本人の意思を尊重しました」は最強の免責事項になる

「本人の意思を尊重する」

聞こえはいい。しかし便利すぎる言葉でもある。

17歳や18歳が、

「勉強なんか必要ない。俺はYouTuberになる」

と言ったとき、

「そうですか。あなたの人生ですから尊重します」

と答える。

自主性を尊重している。多様な生き方も否定していない。教師も余計な価値観を押し付けていない。

誰も怒られない。

ただし数年後に困るのは、その高校生本人である。

これを自己責任と呼ぶなら、かなり冷たい自己責任論だと思う。

そもそも10代が判断を間違えるのは当たり前である。

私だって高校生の頃の自分に人生設計を全部任せたいとは思わない。

私は高校時代、教師に殴られたこともある

だからといって、昔の教師を美化するつもりはない。

私自身、高校時代に教師から殴られたことがある。

今なら完全にアウトだろうし、当時の私も普通に腹が立った。

教師という人種そのものが嫌いだった時期もある。

「先生は君の将来を思っているんだよ」

などと言われても、

知らんがな。殴るな。

である。

ただ、50代になって振り返ると、別の面も見えてくる。

昔の教師は、少なくとも生徒の人生に口を出すことを自分の仕事だと思っていた。

「そんな進路では食えないぞ」

「もう少し勉強しろ」

「このままだと就職できないぞ」

当時は死ぬほどうざかった。

しかし教師にとって一番楽なのは、そんなことを言わないことである。

放置はものすごく楽である

人に注意するのは疲れる。

反発される。嫌われる。場合によっては親からクレームまで来る。

だったら、

「本人の意思を尊重しました」

で終わらせるほうが圧倒的に楽だ。

しかも今なら、それが教育的に正しい態度として成立してしまう。

昔は大人が子どもに介入しすぎた。

しかし今は、介入しないことに正当な理由が付きすぎている気がする。

過干渉の反対は、必ずしも尊重ではない。単なる放置である場合もある。

「殴るな」と「何も言うな」の間

教師が怒鳴り、殴り、進路まで一方的に決める時代に戻したいとは思わない。

私自身、殴られているのだから当然である。

しかし、

「本人が決めました」

「本人の意思を確認しました」

と18歳をそのまま社会へ送り出すのも怖い。

大人には、ときどき嫌われる役割も必要なのではないか。

「好きにすればいい。でも俺はその選択はまずいと思う」

と、しつこく言う人間である。

高校生の頃の私は、そんな教師が大嫌いだった。

今でも高校生に戻れば、たぶん大嫌いになる。

昔に戻りたいとは一ミリも思わない。

ただ、「殴るな」と「何も言うな」には、ずいぶん距離があるはずなのだ。