第一の矢は仕方ない。でも第二の矢まで自分で撃つ必要はない
私は昔から、嫌なことがあると結構引きずる。
誰かに嫌なことを言われる。その場ではやり過ごしても、家に帰ってから思い出す。
「あの言い方は何なんだ」 「あのとき、こう言い返せばよかった」
風呂に入っていても考える。寝る前にも考える。翌朝になっても考えている。
そんな自分にとって、仏教の「二本の矢」の話は非常に分かりやすかった。
ブッダの「二本の矢」
仏教には「二本の矢」という譬えがある。
人間は生きていれば、批判されたり、失敗したり、理不尽な目に遭ったりする。
これが「第一の矢」である。
第一の矢は避けられない。
問題は、その後だ。
「なぜ自分だけがこんな目に遭うんだ」 「あいつは許せない」 「あのとき別の行動をしていれば」
こうして頭の中で苦しみを何度も再生する。
これが「第二の矢」である。
第一の矢は現実から飛んでくる。
第二の矢は、自分で自分に撃っている。
この話を知って、自分が普段やっていることがそのまま説明されていると思った。
嫌なことを言われたのは一回なのに、自分の頭の中では何十回も再生している。
相手から飛んできた矢は一本なのに、自分で二本目、三本目と追加していたのである。
感情を消すのではなく観察する
では、第二の矢をどうやって減らすのか。
仏教では、単純に「考えるな」「怒るな」と感情を押さえ込むのではなく、自分の中に生まれた感情や思考を観察する。
腹が立ったら、
「いま怒りが生まれている」
と見る。
「あいつは間違っている」と考えたら、
「自分はいま、そう考えている」
と見る。
感情の中に入り込むのではなく、一歩離れて眺める。現代的な言葉でいえば、メタ認知に近い。
私もこれを試すようになった。
怒りが消えるわけではない。しかし、
「腹が立つ」
から、
「腹を立てている自分がいる」
へ変わる。
この違いは意外と大きい。
瞑想は「戻る」練習だった
その実践の一つが瞑想である。
以前は、瞑想とは頭を空っぽにすることだと思っていた。
しかし実際にやると、そんなことはできない。
頭を空っぽにしても、仕事や昔の嫌なことが次々と頭に浮かぶ。
そこで、
「あ、いま仕事のことを考えた」 「いま怒りが出てきた」
と観察して、観察者の位置へ戻る。
そしてまた別のことを考える。
また気づいて戻る。
思考に飲み込まれたことに気づき、観察する側へ戻る。
その繰り返し自体が練習なのである。
第二の矢を連射しない
この考え方を知ったからといって、何を言われても腹が立たなくなったわけではない。
今でも普通にムカつくし、失敗すれば落ち込む。
第一の矢は普通に刺さる。
そして気がつけば、
「あいつは本当に……」
と第二の矢を手に持っている。
ただ、そのときに、
「あ、いま第二の矢を撃とうとしている」
と気づけることがある。
気づいたら、また観察する側へ戻ればいい。
一発も撃たない人間になる必要はない。
連射を減らせばいい。
第一の矢を完全に避けて生きることはできない。
嫌なことを引きずっているときには、仏教から教わったこの問いを思い出す。
「これは第一の矢なのか。それとも、いま自分で第二の矢を撃っているのか」
だいたい私が夜まで抱えている問題は、後者である。
第一の矢だけでも十分痛い。
わざわざ自分で追加注文する必要はない。